コラム, 美術の皮膚

【コラム】美術の皮膚(100)「世紀末芸術~江戸時代と大英帝国~」

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19世紀末を代表する文学者(英)オスカー・ワイルドが、(仏)ギュスタヴ・モローの描く『サロメ』に触発されて、パリ滞在中に書いた戯曲「サロメ」は、(捷)アルフォンス・ミュシャによってポスターに描かれた“アール・ヌーヴォー”を象徴する国際的大女優(仏)サラ・ヴェルナールの為に書かれたとも云われているように、最初(1893年)はフランス語で出版されたけれど、翌年に出版された英語版「サロメ」には、後に“英国世紀末芸術”を代表すると云われることになる夭折の画家(英)オーブリー・ビアズリー(1872~1898)の挿絵 が添えられた。

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オスカー・ワイルド「サロメ」 / image via wikipedia

彼の描くモノクロのペン画は、時代を映し出すように耽美的で背徳的だけれど、日本の浮世絵の影響も多く見られる。実際に、ビアズリーの作風を模倣した画家たちが(極めて日本的な)“アール・ヌーヴォー”を形成していったことから“アール・ヌーヴォー”の創始と呼ばれることもある。

ただややこしいことに著者のワイルドは、ジャポニスムで沸く当時の風潮に懐疑的で「“日本”は画家たちが勝手に創った空想の産物で実際には存在しない」とまで言い、ビサンチン的なものに憧れていたから、挿絵を依頼したにも関わらず、ビアズリーの“日本的”な部分を嫌って仲違いしたりもする。

それでもビアズリーの才能を高く評価していたワイルドは、再度ビアズリーに本の装丁の仕事を依頼するけれど、今度は“男色”のスキャンダルに巻き込まれて迷惑したビアズリーの方がこれを断ったから、混沌とした時代の登場人物たちの心情も混沌だ。

他にも、ビアズリーの才能を絶賛し、画業での独立を勧めたのは“ラファエル前派兄弟団”の第2世代と云われる(英)エドワード・バーン=ジョーンズ(1833~1898)だ。もう既にジョン・ラスキンの「自然をありのままに描くべき」美意識はどこ吹く風だけれど。

しかし、彼の盟友で同じく“ラファエロ前派兄弟団”第2世代の(英)ウィリアム・モリス(1834~1896)は、ビアズリーの作品を“盗作”呼ばわりをするから、ビアズリーも負けじと「モリスの作品はただの古ぼけた過去の真似事だけれど、僕の作品は新鮮で独創的だ」と言い返して仲違いするから、僕はやっぱり“ラファエル前派兄弟団”の価値を“混沌”にしか見出せない。

ビアズリーは、「近代画家論」を著し“ラファエル前派兄弟団”の父でもある(英)ジョン・ラスキンが晩年を汚すことになる訴訟相手の(米)ジェームス・マクニール・ホイッスラー(1834~1903)に憧れていたけれど、彼に作品を酷評されると仕返しにボイッスラーをバカにした風刺画を描いてみせるから、北野武監督の映画「アウトレイジ」のキャッチコピー「全員悪人。」を思い出す。

そもそもこの混沌とした“世紀末芸術”を体系立てて説明すること自体が、まったくのナンセンスなのかもしれない。

ちなみに「サロメ」は20世紀初めには森鴎外によって日本語訳されていて、その後も様々な翻訳者によって日本語版が出版されている。しかし、この耽美的な世界観が日本にそれほど根付かなかったことに、徳川家康を思い出した。

ホトトギスの例え話で括られる3人の天下人の中で、狩野派を庇護し、茶器、能楽に熱心だった信長や、和歌を詠み茶道にも通じていた秀吉に比べて、実学を好んで馬術や武術に長け読書家であった家康だけれど、実は最も“芸術”を理解していたのではないかと僕は勝手に思っている。“芸術”という響きに内包される“危うさ”を理解していたからこそ、戦国の世の中を治めて何百年も続く国家を目指した家康は、あえて“芸術”を嫌って遠ざけた気がしてならない。

“美術不毛のイギリス”と言ったけれど、実は日本にもそれほど“美術”の花は開いてはいない。今でこそ、葛飾北斎が19世紀のヨーロッパ美術に与えた影響が盛んに云われていて、セザンヌは自身の「絵画論」に北斎の影響を明示しなかったとして、最近バッシングされていると“師匠”から聞いたけれど、そもそも日本に“芸術”が根付いていないのは「明治政府の性急な欧化政策で、江戸の文化を切り捨てたからだ」と言うから、僕は前述の例を出して、その前にも家康が切り捨てたんじゃないか?と訊いてみた。

「利休が茶道を通じて、工芸としての茶器に芸術性を採り入れて、それを発展させた古田織部に、僕は日本の“アート”の萌芽を感じるんですよ」

「ほー織部に眼をつけたか」

「で、織部に切腹を命じた家康こそが、誰よりも“アート”を理解していて、それが含んでいる“曖昧さ”や“背徳性”が、戦国時代の混沌を抜け出して、安定した治世に移行する障害になるって知っていたんじゃないかって」

「なかなか面白いことを言うね」

「だから日本の“アート”の分断は家康と明治政府の2回あったと思うんですよ」

「その考え方も面白いね」

“面白い”としか言ってもらっていないから、お墨付きはくれないようだ。ただ実際に、(日)葛飾北斎(1760~1849)が活躍した江戸の庶民文化は、家康没後188年も経った11代徳川家斉の化政文化期(1804~1830)まで待つことになる。

徳川幕府は250年以上も平和な時代を築き上げた一方で、ヨーロッパ美術に当てはめるとバロック期から印象派までの長きに渡って、“安定”の代償として“革新”を生まなかったんだと思う。そう考えると、イギリスで美術が不毛な理由も、大英帝国の安定的な繁栄の代償なのかもしれない。

やはり、情報能力に長けた“視覚”に訴えかける“美術”の影響力は僕の想像よりはるかに大きい。

つづく

高柳茂樹
一般社団法人日本美術アカデミー
プランニングディレクター
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