お叱り覚悟で大雑把に言うと、ロートレックはポスター画家としては「アール・ヌーヴォー」、油彩画家としては「後期印象派」の画家と云われている。
ポスター画の方が圧倒的に有名だとは思うけれど、2005年にはクリスティーズで油彩画の『洗濯女』(1886年/個人蔵)が、当時の高額取引の記録にもなった24億円で取引された。だからという訳じゃないけれど、個人的には油彩画家としてのロートレックの方が、圧倒的に魅力的だと思うけれど、自身でも数多くのポスターを手掛けているアーティストの木村さんが選んだロートレックの作品は、きっとポスター画じゃないかと勝手に思っていた。
ところが彼の選んだ作品は、先述のように木炭で描かれた恐らく下絵と思われる『イヴェット・ギルベールの肖像』(1894年)だった。
ただ「デッサンじゃないか!って叱られた時のために、保険でもう1枚選んであるんですよ」と言って見せてくれたのは、やっぱりポスター画『ムーラン・ルージュのラ・グリュ』(1891年)だったから、僕の予想は半分くらいは当たっていた。
そして、このデッサンを選んだ理由を木村さんに聞くと「描かれた女優が、私はもっとキレイよ!って怒ったらしいんですよね」って笑って答えてくれた。
その時の話かどうかは定かではないけれど、女優にクレームを言われたロートレックは「だって君はこの前、猫を虐めてたじゃないか」って言い返したという話を聞いたことがある。恐らくクレームを入れられたのは1度ではないのだろうけれど、それでもロートレックの描くポスターは人気だったのだから不思議な話だ。
やはり当時の人気ポスター画家だったシェレやミュシャのように、モデルを殊更に美化して描かないロートレックの絵は、自ら語ったようにモデルの内面や才能も含めて「総合化」して描くという点では、明らかにただの似顔絵とは違っている。
木村さんもそこが好きらしくて「僕がロートレックを好きなのは、少し意地悪な目線で対象を描くところなんです。ポーズもちょっと面白くて、少し影響されています」と言っていた。そこで僕は、当時のムーラン・ルージュで人気の女優やダンサーの写真を見せて「この中で誰がモデルか判りますか?」と質問すると、似ても似つかないようにデフォルメされて素人目には判らないはずの意地悪な質問に、即座に正解してみせたのはさすがだ。
それにしても、異質なロートレックのポスターが人気だったのには理由がある。それには、フランスで3本の指に入る裕福な貴族の家に生まれた、彼の人生が密接に関わっているのだと思う。
アンリ・マリー・レイモン・ド・トゥールーズ=ロートレック=モンファの名前から容易に想像できるように、ロートレックは9世紀から続く南仏アルビの裕福な伯爵家の長男として生まれた。
トゥールーズ=ロートレック家待望の長男は「小さな宝石」と呼ばれて、家族中から愛されていて、特に父親の後継ぎへの愛情はトゥールーズ=ロートレック家のお屋敷よりも大きくて、まだ小さなロートレックへ「鷹狩の指南書」に「大自然の中で暮らすことこそが健全なのだ」と手紙を添えて贈るほど、一緒に鷹狩りに出かける日を夢見て、彼の成長を誰よりも楽しみにしていた。幼いロートレックも、父親たちが狩りから戻って来るのを楽しみにしていて、一緒にその日の獲物をスケッチしていたという。
ところが、少しずつロートレックの人生に影が落ちていく。彼の弟が幼くして亡くなると、夫婦仲が冷え込んでしまい、母親はロートレックを連れてパリで別居生活を送ることになる。
離れていても父親との思い出をなぞるように、絵を描き続けるロートレックの才能に気付いた母親は、彼を画塾に通わせて、画家ロートレックの道筋ができるのだから何が幸いするのか解らない。
しかし、幼いロートレックを、さらに悲劇が襲う。二度の事故で左右の足を骨折して、下半身の成長が止まってしまう。そのため彼の身長は生涯150cm程度までしか伸びないのだけれど、それどころか、療養のために戻った故郷アルビでは、ようやく再会できた父親に疎ましがられたというのだから、後継ぎへの大き過ぎた期待を差し引いたとしても酷い父親だ。会ったこともない人を悪くは言いたくないけれど。
(つづく)