コラム, 美術の皮膚

【コラム】美術の皮膚(130)ゴッホとゴーギャン~傲岸不遜なゴーガン~

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ゴッホの人生に大いに関わっているゴーギャンだけれど、なかなかに不遇なゴッホの人生にも増してゴーギャンの人生も悲惨だから、短い間でもこの二人が一緒に住んでいたなんて話を聞くと、絶対にそこに同居なんかしたくないと思うのは僕だけではないはずだ。

仏教でいうところの「縁起」の意味が、全ての結果は本質ではなく、様々な原因が互いに関わり合ったただの結果なのだとしたら、ゴッホとゴーギャンのどちらかだけが原因ということはなくて、それはもうお互い様ということだ。

ゴッホとゴーギャンの共通点を言えば、何をやっても上手くいかない世の中への不満を抱えていたというところだろう。両者それぞれ神学校と海軍士官学校の受験に失敗したり、仕事が上手くいかなかったり、結構な挫折を味わっている。色々な理由はあるのだろうけれど、二人が南仏アルルで一緒に過したのも、決して前向きな話ではなかったのだと思う。

いわゆる世間からはみ出した弱者連合のようなものだけれど、人類史上それが成功した例を僕は知らない。そして、いくら二人の死後に評価が高まったとしても、それで彼らの人生が幸福だったと言ってしまっては無責任過ぎる。

一方で二人の違いは、ゴッホが上手くいかないことを受け入れつつも、逃げるように諦めているのに対して、ゴーギャンは他責で文句ばかり言っている。ゴッホの“間が悪い”のは気の毒な感じがしないでもないけれど、ゴーギャンの方は明らかに自ら墓穴を掘って追い込まれていく。傲岸不遜の語源はゴーギャンではないかと思うくらいに態度が悪い。

印象派の長老ピサロに唆されて、片手間の日曜画家として印象派展に参加していたゴーギャンが、突然に仕事と家族を捨てて画家の道に進んだと云われることもあるけれど、実際はそんなにドラマチックな話ではなくて、第7回印象派展が開催される頃に起きた金融恐慌が原因で、本業の株式仲介業が立ち行かなくなって已む無く画家の道に進んだのではないかと思うのは、それまでのゴーギャンの作品はほとんど誰にも評価されていないし、株式の仲介で成功していたはずの勘の持ち主のやることにしては頓珍漢が過ぎるからだ。

実際に、画家の道に引きずり込んだピサロには「本格的に画家になろうと思うのだが支援して欲しい」と懇願したらしい。ただ、ピサロはそれに応えていないようだから、やっぱりピサロが小金持ちのゴーギャンを煽てて頭数として印象派に参加させていたんじゃないかという気がする。そうでなくてもゴーギャンを勘違いさせてしまったピサロの罪は重いし、印象派自体も最年長のピサロの不甲斐なさで分裂した気がするす。

作品にもピサロの芯のなさが表れてしまっている。頭角を現すモネやルノワールを横目に自分の風景画が売れないと見るや、印象派の特徴である“筆触分割“を更に進めたジョルジュ・スーラの点描に乗っかって描き出したと思ったら、画商にモネのような風景画がアメリカで人気なのだと聞かされて、また風景画を描きだす始末だ。印象派を壊したのはドガだと云われることが多いけれど、僕はご都合主義のピサロが原因じゃないかと思っている。

ただ、煽てられて勘違いをしたゴーギャンの方もしょぼくれるほど軟弱ではない。荒海に漕ぎ出す元船乗りで、生き馬の目を抜く株業界で成功したタフネスは、ピサロが新印象派として台頭してきたスーラを自分の代わりに持ち上げだすと、スーラの点描画とピサロを侮辱するだけじゃなく、印象派の画家たち全員に悪態を吐いた。

「印象派の画家たちは、自分たちが見えるモノだけを探し回っていて、思想の神秘的な内面に入り込もうとしていない。それはまったく上辺だけで、まったく物質的で、媚びでできた芸術だ。そこに思想は住んでいない」

まるで、自分が評価されないのは、周りに見る目がないのだとでも言わんばかりに、恩を仇で返すような物言いだから、当然パリにゴーギャンの居場所はなくなっていく。しかもその癖に、印象派が解散した後でさえ、ドガやピサロの絵を熱心に真似ていた人間の言うことではないから、傲岸不遜で厚顔無恥な人物だなんて言っても過言ではない気もする。

Paul Gauguin La bergère bretonne
「ブルターニュの羊飼い」/ image via wikipedia

せめて、驚くべき作品を描いてみせれば少しは見直せるのだけれど、誰かの真似事でしかない当時の作品を、残念だと思うのは僕だけではないはずだ。『ブルターニュの羊飼い』(1886年/英レイン美術館)

つづく

高柳茂樹
一般社団法人日本美術アカデミー
プランニングディレクター
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