コラム, 美術の皮膚

【コラム】美術の皮膚(137)ゴッホとゴーギャン~以て非なるダンス~

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画家に人生は不要だと言ったドガを引き合いに出すまでもなく、画家の描いた作品こそが評価されるべきだけれど、死後に手紙が公開されて、その創作に懸ける真摯な態度によって、生前には考えられないような評価を得たゴッホの状況を考えると、何を描いたというより誰が描いたのかというファクターも現実的には重要なのかもしれない。

ただ、そういう意味では、作品の価値を維持するために、画家の人生を神格化する良くない風潮について、個人的には懐疑的であるから、ゴーギャンに関してはお叱り覚悟でもやはり言いたいことがある。もちろん、作品鑑賞の邪魔をしてはいけないのだろうけれど、ゴッホのことを考える時に、例え短い間であっても、ひとつ屋根の下で共同制作をしていたゴーギャンとの対比は、必要不可欠だと思う。

繰り返しになるけれど、両者の共通点を挙げるとすれば、時代とは上手く踊れなかったけれど、生前よりも没後に評価が高まっていることだろう。しかし、世の中に認められない原因は、繊細で内向的ゆえに理解されないゴッホと、自尊心が高く豪放磊落で嘘も辞さないゆえに嫌われたゴーギャンとは、正反対だと言っても過言ではないはずだ。

Vincent Willem van Gogh 098
「エッテンの記憶」/image via wikipedia

具体的な画風に関しても、ゴッホの評価が没後に高まると、ゴーギャンは平気で「自分が育てた」くらいの嘘を吐くけれど、ゴッホはゴーギャンの“総合主義”を真似て『エッテンの記憶』(1888年11月/エルミタージュ美術館)を描いてはいるものの、どうにも性に合わなかったらしく以後は自身の画風を貫いている。

Red vineyards
「赤い葡萄畑」/image via wikipedia

ほぼ同じ時期に同じ題材を描いた「葡萄畑」の絵、ゴッホ『赤い葡萄畑』(1888年11月/プーシキン美術館)と、ゴーギャン『ぶどうの収穫 人間の悲哀』(1888年11月/オルドルップガード・コレクション)を見比べれば、共同生活が破綻するのも当たり前だったと思える。

Gauguin Misères humaines
「ぶどうの収穫 人間の悲哀」/image via wikipedia

ゴッホとの違いを大げさに見せるために、しつこいようだけれどもう少しゴーギャンの人生を追ってみると、パリから逃げるように1895年に再びタヒチに向かったゴーギャンは、決して孤高の画家ではなく、西欧化の進んだ首都パペーテに住み、自分の悪口を掲載した文芸誌「メルキュール・ド・フランス」をチェックし、数少ない懇意にしていたパリの美術関係者と盛んに手紙をやり取りしていたと云われているから、僕には極めて世俗的な画家に見える。

一方で、遠くパリでのゴーギャンの悪評が届かないタヒチの画家コミュニティで、ポン=タヴァンと同じように、大口を叩いていたことは想像に難くはない。もはや、パリに作品を送るでもなく、同じようにタヒチで大きい顔をしていたヨーロッパからの植民者たちを相手に作品を売り出すと、パリの美術事情に疎い彼らは「芸術の都から野生を求めてタヒチを訪れた」画家の作品を有り難がるものだからこれが意外にも成功する。郊外に大きなアトリエを構えて、いつでも町まで遊びに行けるように馬車まで持っていた。

同じように不遇の時代から成功を掴んで豪邸に住み、運転手付きの車まで持った(露)シャイム・スーティン(1893~1943)を思い出すけれど、彼の場合は贅沢な生活が身につかず、自暴自棄になって再び極貧の生活に戻り、晩年はナチスのユダヤ人刈りから逃れるように各地を転々として、過酷な暮らしの中で最期を迎えた。

しかし、ゴーギャンの自尊心は止まるところを知らない。地元の名士気取りで、植民地政府の官僚たちを批判しだすのだけれど、内容は決して原住民の権利を守るような主張ではなく、ただひたすらに大物気取りで、己の自尊心を満たすための捌け口だったようだ。

僕の周りにも時々、自分を尊大に見せるために、必要以上に他者を悪く言う人を見かけるけれど、僕はその時まさにゴーギャンを思い出す。あまりゴーギャンを悪く言っているから、僕も彼の名を借りて自分を尊大に見せようとしているのか?と顧みたけれど、きっと違う。大げさに見せたいのはゴッホとの違いだ。

つづく

高柳茂樹
一般社団法人日本美術アカデミー
プランニングディレクター
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