印象派のモネやルノワールに比べると、圧倒的に知名度の低い「印象派の父」マネだから、国内でもなかなか企画展が開かれる機会は少ない。
ちょうど10年前に、丸の内のオフィス街の一角に建つ三菱一号館美術館の杮落しで「マネとモダン・パリ展」が開催された時には、100点近い作品が世界中から集まったけれど、まさに「都市生活の中心としての美術館」として挑戦的な企画展ではあるものの、そんなことは世界的に見ても没後100年を記念したパリで開催された回顧展以来、珍しいというのだから皮肉なことだ。他に日本国内には、ひろしま美術館にも『灰色の羽根帽子の婦人』(1882年)、『バラ色のくつ(ベルト・モリゾ)』(1872年)といったマネの作品が所蔵されている。
ひろしま美術館といえば、開館当時に多くの印象派作品を納めた老舗画廊のお嬢さまは、僕の絵の師匠でもあるのだけれど「マネの黒は素晴らしいのよ」って教えてくれたから、あんまり勝手にマネの話をすると叱られそうだ。彼女は世界最大のオークション会社クリスティーズや世界最大級のメトロポリタン美術館にも在籍していたことがあって、僕よりもはるかに優れた審美眼をお持ちだから、作品についての評価に言葉を返すつもりなどない。
近代化が進んだ19世紀ヨーロッパの人間関係が冷ややかだったことを「黒」を使ってクールに描いていることに全く異論はないけれど、本人がそのままクールな「印象派の父」であったというイメージが、いかにも勿体ないと思うだけだ。
とはいえマネの作品の経済的な価値が桁違いに跳ね上がるのは、1986年の英国クリスティーズで『舗装工のいるモニエ通り』(1878年)が15億円以上で売れてから、しかも印象派の人気画家たちの作品が売れてしまって市場に少なくなったからだなんて言うと、本当に叱られそうだから言わない。いや、酒席の無礼講で言いそうだけれど。
勝手ながら、マネの面白さはその“滑稽さ”にあると僕は思っている。若い画家たちに自分のアトリエを開放したり、経済的な支援をしていた理由は、面倒見の良い長男気質に加えて、なかなか世の中に認めてもらえずに折れそうになった心を、集まって来た若者たちに尊大に振舞うことによって、辛うじて自尊心を保つためだった気がする。
そして、彼を「父」と慕う印象派をはじめとした若い画家たちも、そのことを承知で付き合っていたんじゃないかとさえ思う。そういう意味でも、マネが富裕層の家に生まれたということも重要なファクターだったはずだ。
前回ご紹介した『マネとマネ夫人像』(1868-69年/北九州市市立美術館)の他に、アンリ・ファンタン=ラトゥール『バティニョールのアトリエ』(1870年/オルセー美術館)にも、“滑稽”なマネが描かれている。
まるで若い画家たちに絵の手ほどきをしているマネは、既に社会的な成功を手に入れた巨匠の尊大ささえ感じるけれど、全くそんなことはない。繰り返しになるけれど、生涯挑戦し続けた官展(サロン)においては、入落選が半々のその他大勢の画家であった時期だからだ。
しかも、マネの絵をのぞき込む若い画家たちの中には、当時のフランス画壇の本流ともいえるエコール・デ・ボザール(国立美術大学)を卒業したルノワールがいる。一方のマネは、人気の私塾で6年も在籍しながら恐らく親のお金でヨーロッパ中の美術館で古典絵画を観て廻っていたに過ぎない。
日本の芸道でいう“守・破・離”で例えるならば、古典を徹底的に学んで型を“守り”、その上で既存の方を“破り”、更に型から“離れ”独自の型を創っていったのはルノワールの方で、千利休に言わせれば、最初から我流で型のないマネは「型破り」ではなく「形無し」ということになる。
(つづく)