コラム, 美術の皮膚

【コラム】美術の皮膚(175)マネの黒とマネの闇~印象派の叔父はスペイン風写実主義?~

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前回ご紹介したように、マネは「印象派の父」になる前には、当時のフランスで流行していたスペインかぶれの「写実主義の兄」でもあった。印象派の叔父が写実主義というのはどうにも辻褄が合わないから、僕はマネのことを主義に関わらず「お金周りの良い気の良い先輩」くらいだと思うけれど、それはきっとお叱りを受けるのでそれほど強くは主張しない。

マネが初入選を果たして、どうにかフランス画壇の末席に加わった翌年に、あれだけ畏れていた父親が亡くなってしまう。マネが画学生時代に息子まで儲けた女性を、内縁の妻扱いし続けたのが、父親の目を気にしなくて良くなったとばかりに、この翌年に入籍している。

その年には官展(サロン)には出品していないけれど、まさか画家として世の中に認められる努力までも父親の目を気にしていたとまでは勘繰りたくはないし、少なくとも絵を描くこと自体をやめてしまったわけではない。

マネのことを「愛なき画家」なんて呼んでしまったけれど、彼のアトリエの近くには、貧しい人たちが住むエリアがあって、そこにある住居が近代化が進むパリの都市計画によって次々と取り壊されていく様を一心不乱に描いていた時期もあったらしい。

MANET Música en las Tullerías National Gallery Londres 1862
「テュイルリー公園の音楽会」/ image via wikipedia

ただ、それに飽きると、今度は社交界の友人たちが楽しそうに遊ぶ『テュイルリー公園の音楽会』(1862年/ロンドン・ナショナル・ギャラリー)を描いているのだから、感傷を抜きにしてただそこにある風景を見ているマネに、やはり愛は感じない。ここまで主題に思い入れなく創作する画家を僕は他に知らない。芸術を主題から解放させたピカソさえ、祖国スペインの悲惨な出来事に触発されて『ゲルニカ』を描いた。

マネの画風は、何かの主義があった訳でもなく、ただ官展(サロン)で認められる作品を描き続けていたようにさえ思える。20年以上に渡って官展(サロン)挑戦している訳だから、その間にフランス画壇の風潮にも流行り廃りがあるわけで、マネはそこに乗っかるものだから、19世紀フランス美術の歴史の参考にはなるけれど、画家としてはいかがなものかとも思う。

何を勝手なことをと思うかもしれないけれど、実際にマネが官展(サロン)に出品した作品を時系列を追って見ていけば、同じ画家が描いた作品だとは思えないほどバリエーションに富んでいる、と言えば聞こえは良いけれど。

官展(サロン)に初入選した1861年の翌年に描かれた『テュイルリー公園の音楽会』(1862年/ロンドン・ナショナル・ギャラリー)は、出品する前に画廊に飾ってみたら酷評を浴びてしまうものだから、この年のマネは官展(サロン)への出品をしていない。酷評に自信を無くしたのか?父親の死に対して喪に服していたのか?新婚生活が楽しくて絵を描くどころではなかったのか?本人に訊かないと解らないけれど、訊いたとしてもマネは本当のことを語らないと思う。

翌1863年には意欲的に3作品を出品したけれど、運の悪いことにこの年の官展(サロン)は、絵画の多様性に反発した保守勢力の反発で、今までにも増して厳しかったから、マネの作品は全て落選してしまう。“厳しい”といっても2000点弱は入選しているので、マネはそこにさえ届かなかった。

Edouard Manet 082
「エスパダの衣装を着けたヴィクトリーヌ・ムーラン」/ image via wikipedia
簡単いうと、そろそろ流行のスペイン風の作品が、市民権を得られるんじゃないかと予想して、圧倒的にスペイン趣味の『エスパダの衣装を着けたヴィクトリーヌ・ムーラン』(1862年/メトロポリタン美術館)、『マホの衣装を着けた若者』(1863年/メトロポリタン美術館)を出品してみたら予想が外れたのだから、ただの落選よりも恥ずかしい。
Edouard Manet Mlle Victorine Meurent in the Costume of an Espada
「マホの衣装を着けた若者」/ image via wikipedia

しかし、もう残るもうひとつの落選作品が“あの”問題作『草上の昼食』(1863年/オルセー美術館)だった。

草上の昼食

つづく

高柳茂樹
一般社団法人日本美術アカデミー
プランニングディレクター
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