コラム, 美術の皮膚

【コラム】美術の皮膚(184)マネの黒とマネの闇~都会の温度と田舎の温度~

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なにもサロン(官展)だけが発表の場ではないと、少しずつ顧客が付きだしたモネを中心として1874年に開催された「画家、彫刻家、版画家などによる共同出資会社の第1回展」、いわゆる「印象派展」の結果は散々で、30日間に訪れた来場客は3,500人程度で、そのほとんどが冷やかしだったと云われている。因みにその当時のサロン(官展)の入場者数は40日間で50万人を超えていたのだと云うのだから、モネたちの思惑は外れて圧倒的な影響力の差だけが明らかになってしまった。

結果として、参加どころか止めるように勧めたマネの態度が正しかったことになるけれど、ドガはマネのことを「うぬぼれている」と激しく罵った。しかし一方で、印象派展への非協力的な態度とは裏腹にマネとモネとの交流はより一層深まったように見える。初対面で「私の名前を真似るけしからん若者」と叱責されたことを考えると驚くべき進展だけれど、マネの尊大さを受け入れた上で、モネが上手く付き合っていたのだとも思う。

1875年(サロン出品)

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入選:『アルジャントゥイユ』/image via wikipedia

1875年のマネのサロン(官展)出品作品は、まるで「印象派」に参加したかのようだ。印象派展への参加を拒んだマネが、印象派へのエールとしてこれらの作品を描いたとも云われているけれど、それではサロンでの評価に拘るマネの執着と辻褄が合わない気がするから、印象派風がサロンに受け入れられるかもしれないとマネが考えたなんて、それでは画家の矜持が全く感じられなくなるから思っても言わない。

1876年(サロン出品)

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落選:『洗濯』/image via wikipedia
Manet O artista Retrato de Marcellin Desboutin 1875 3
落選『画家の肖像』/image via wikipedia

印象派風の作品の入選で手応えを感じたのかどうかはマネに聞かないと分からないけれど、翌年も印象派風の『洗濯』(1875年/バーンズ・コレクション)をサロンに出品したけれど残念ながら落選する。都会ではなく草原で洗濯ものを干す母娘の姿は、愛情に溢れていて、マネの作品とは思えない気がするのは、僕だけではないと思う。

実際に、19世紀を代表する詩人のステファヌ・マラメルは『洗濯』を彼の代表作になると絶賛してマネを喜ばせた。「愛のない画家」かもしれないなんて思ってしまってごめんなさい…マネ。冷たい人間関係は都市に住む人々限定で、田舎に住む人たちと描き分けていたのかもしれないと思い直したいけれど、なにも自分の両親を描いた『オーギュスト・マネ夫妻の肖像』(1860年/オルセー美術館)にまで適用することもないとも思う。

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入選:「オーギュスト・マネ夫妻の肖像」/image via wikipedia

そしてスペイン風に友人の画家マルスラン・デブータンを描いた肖像画も落選してしまう。評価の基準が一定しないサロン(官展)と、何とかそこで評価して欲しくて画風をころころと変えるマネは、もはや鼬ごっこの様相だ。因みにバティニョール派でもあり第2回の印象派展にも参加しているマルスラン・デブータンは、芸術振興に対する活動が認められて、マネが亡くなるまで欲しがった(レジオンドヌール)勲章を晩年に受勲している。

当時のマネがそのことまで知っているわけもないのだけれど、印象派風でもスペイン風でも入選が叶わなかったマネは(印象派展は止めたはずなのに)落選した自身の作品を集めて再び個展を開いた。

マネは常日頃、身なりには気を配っていたらしい。彼が尊大でいるための重要な鎧だったのかもしれないけれど、派手なズボンをはき、丈の短いジャケットを着て、立派に髭を整えて、奇麗なスエードの手袋をはめて紳士然とした態度は、今ならば「ギャップ」ということで好意的に捉えられたかもしれないけれど、その当時は「こんな気取った態度であんなにスキャンダラスな絵を描いていたのか…」と、むしろネガティブな評価につながるから、一向にマネの評価は低いままだった。

つづく

高柳茂樹
一般社団法人日本美術アカデミー
プランニングディレクター
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