ゴシック期の(伊)チマブーエ(1240頃~1302頃)から、ポップアートの(米)アンディ・ウォーホール(1928~1987)まで約300人の著名な画家たちから、美術史的な功績とか経歴を無視して、ただ「ご長寿」の画家たちを抜き出してご紹介していると、だからこそ思い出した画家たちがいるのも面白いのだけれど、今回はいよいよ20世紀美術の扉を開けた大巨匠の二人が登場する。
85歳(仏)アンリ・マティス(1869~1954)
ピカソのキュビズムと並んで、20世紀美術に多大な影響を与えたフォーヴィズムの創始者。
フォーヴィズムという呼び名は「ゴシック」や「印象派」と同じように、展覧会でマチス、(仏)アンドレ・ドラン(1880~1954)、(仏)モーリス・ド・ヴラマンク(1876~1958)の荒ぶる作品が集められた部屋を「野獣(フォーヴ)の檻」だと皮肉られたのが由来だと云われている。
フォーヴィズムの特徴である「線の単純化」や「色彩の鈍化」を突き詰めた結果、マティスは晩年に「切り絵(カットアウト)」の作品を多数創作した。
近代絵画が、様々な「解放」を志向していく前夜に、ピカソのキュビズムは線と形をそれまでの美術の常識から「解放」し、マティスのフォーヴィズムは面と色を「解放」してみせたのだと僕は思っている。しかし、20世紀最大の芸術家と称され、ギネスブックにも「最も多作な画家」として登場するピカソに比べると、マティスの一般的な知名度が少し低い気がするのは個人的には不満だ。
僕は、ピカソには(仏)ジョルジュ・ブラック(1882~1963)という理論家のパートナーがいたので、キュビズムという新しい芸術運動がより確信的、体系的に広がっていったのに対して、マティスのフォーヴィズムは、明確な規則がなかったため(活動自体も5年程度で終わってしまった)影響のみを残すことになったのではないかと思っている。ピカソは秀才で、マティスは天才だったというと言い過ぎだからやめておくけれど。
87歳(仏)ジョルジュ・ルオー(1871~1958)
ステンド・グラス職人を経て象徴主義の先駆(仏)ギュスタヴ・モロー(1826~1898)の弟子となった。同門のマティスが創始した「フォーヴィズム」にも参加したけれど、娼婦やピエロ、またキリストを題材にした重厚で宗教的な作品は独特で、他のどの画派とも一線を画した孤高の画家だった。
試行錯誤を繰り返し幾度なく塗り直すことで厚く盛り上がった画面や、ステンド・グラス職人時代の影響を感じさせる太く濃い輪郭線は、装飾的であったそれまでの宗教画ではなく、静かで素朴な「祈り」を感じさせるから、彼が「20世紀最大の宗教画家」と呼ばれる所以となっている。
82歳(仏)モーリス・ド・ヴラマンク(1876~1958)
両親が音楽家の家に生まれ、バイオリン奏者や競輪選手として生計を立てていた。徹底した自由主義者で束縛を嫌い、自身の才能のみを信じて独学で絵を描きだし、フォーヴィズムを代表する画家(仏)アンドレ・ドラン(1880~1954)と共同でアトリエを構えたり、マティスと共にフォーヴィズムに参加したりした。
しかし、第一次世界大戦後にはフォーヴィズムから一転して暗い色調で、拠点を移したパリ郊外の風景を描いた。自由を愛したヴラマンクは(蘭)ゴッホ(1853~1890)や(仏)セザンヌ(1839~1906)の影響を受けているものの、特定の画派に属することなく最後まで独学で絵を描いたけれど、(日)佐伯祐三(1898~1928)や(日)里見勝蔵(1895~1981)に直接指導していて、日本の西洋画界にも影響を与えている。
私事で恐縮だけれど、僕が銀座の日動画廊に度々お邪魔するようになるきっかけは、ヴラマンクだった。ふらっと入った画廊に飾られていた晩年の作品の前に立っていると、背後から小柄な紳士に「ヴラマンクがお好きなんですか?」と声をかけられて、原画を買える訳などないので恐縮していたら、奥の書庫から画集を持ってきてくれて、色々と教えてくれたのは、日動画廊の常務で、今や僕の美術の師匠だ。
92歳(西)パブロ・ピカソ(1881~1973)
今さら説明は不要なくらい有名な20世紀最大の芸術家。生涯15万点以上の作品を残し、ギネスブックにも「最も多作な画家」として掲載されている。
残念ながら本名の「パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・クリスピーン・クリスピアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ」は世界一長い名前ではないけれど。
ピカソの名前は、一般的な知名度と同じくらい美術史上にも燦然と輝く。印象派まで続いた「何を描くか?」が絵画の重要な要素だったのに対して、「描くこと自体が意味を持つ」モダンアートの幕開けは1907年だと云われているけれど、これはピカソが『アヴィニヨンの娘たち』(ニューヨーク近代美術館/1907)を発表した年だからだ。例えばルネサンスから続く「一点透視図法(遠近法)」といった規則や様式からの解放を志向して、常に革新、前進を続けることが「アート」の使命になった。15万点の多作も、この点において意味がある。
また、多くの画家が自身の画風の確立に血道を上げるのに対して、まさに「描くこと自体に意味を持たせる」ようにピカソの画風は、生涯を通じて革新と前進を続けた。
友人の死を受けて青色が基調の暗い絵を描いた「青の時代(1901~1904)」
一転して恋人との幸せな生活を反映した「ばら色の時代(1904~1907)」
アフリカ彫刻の影響を受け『アヴィニヨンの娘たち』が生まれた「アフリカ彫刻の時代(1907~1909)」
セザンヌの影響を受けブラックと共に美術を線と形から解放した「キュビズムの時代(1909~1918)」
キュビズムから一転して写実的な女性像を描いた「新古典の時代(1918~1925)」
現実にはあり得ない人物を多く描いた「シュルレアリスムの時代(1925~1936)」
ナチス軍が母国スペインの都市ゲルニカを無差別爆撃したことに抗議して『ゲルニカ』(ソフィア王妃芸術センター/1937)を描いた「ゲルニカの時代(1937)」
同郷の巨匠ベラスケス『ラス・メニーナス』(プラド美術館/1656年)等の古典絵画をリメイクする形で多くの連作を描いた「晩年の時代(1968~1973)」
本人が「絵画は、部屋を飾るためにつくられるのではない。画家は古いもの、芸術を駄目にするものに対して絶えず闘争している」と言ったように、特に晩年は、それまでの経験の全てをキャンバスに反映させ、尚且つよりダイナミックでカラフルな作品を創作して、最後まで美術の可能性を探求し、前進し続けたのだからやはり20世紀最大の芸術家だ。
(つづく)