フィレンツェで、ルネサンスの三大巨匠のひとり(伊)ラファエルロ・サンティ(1483~1520)が、我が子イエスを抱き愛情に満ち溢れた笑顔で鑑賞者に微笑みかけるような聖母を描いた『小椅子の聖母』(1515-1516年頃/ピッティ美術館 蔵)に出会うと、ルノワールは友人に宛てた手紙に「私はラファエロの作品をもっと早く観ておくべきだった。彼は私のように不可能なことを追求しない。そこには驚くべき単純さと偉大さがある」と書いた。
イタリアからの帰国後に、妻アリーヌ(1890年に正式に結婚)が生まれたばかりの長男ピエールを抱く姿を描いた『授乳する母親』(1885年/オルセー美術館 蔵)には、その影響が感じられる。幸せに満ちた母親の幸福感が、暖かな色彩で単純に描かれている。
古典美術に触れて、その素晴らしさに再び創作意欲を得たルノワールは、若い頃に訪れたルーブル美術館で『カナの婚宴』を前に描いた夢を実現しようと、新たな気持ちでキャンバスに向かった。
およそ縦1m横1.7mの大作に挑み、完成までに3年を費やして『女性大水浴図』(1887年/フィラデルフィア美術館 蔵)を完成させる。
印象派時代とは全く違った画風で、裸婦たちをはっきりとした輪郭線で描いたこの作品は、デッサンを重要視したフランス新古典主義の巨匠(仏)ドミニク・アングル(1780~1967)『トルコ風呂』(1863年/ルーブル美術館 蔵)の影響を受けていると云われている。そして、この頃のルノワールの作品は「アングル様式の時代」と呼ばれている。
過去の画風に決別したこの意欲作は、親友モネだけは理解を示したものの、世間での評判はまたしても散々なもので、印象派の盟友だった(仏)カミーユ・ピサロ(1830~1903)は「線を重視するあまり人物は背景と分離しバラバラだ。色彩への配慮も欠けて調和なき表現に陥っている」と辛辣な評価をしている。
およそ8年に及んだ「アングル様式の時代」に、新しい表現を求めて試行錯誤を繰り返した苦悩の中で、ルノワールは原点に回帰する。
「絵は楽しく美しく愛らしいものでなくてはならない」
ルノワール51歳の時の作品『ピアノを弾く少女たち』(1892年/オルセー美術館 蔵)は、印象派時代のような暖かい色彩で、ピアノを弾く少女たちが愛らしく表現されている。
フランス政府がこの作品を買い上げて、ルノワールの名声が不動のものとなると共に、画家としての円熟期を迎えて、『眠る女』(1897年/オスカー・ラインハルト・コレクション 蔵)をはじめとして、次々と傑作を描くことになる。
「風景ならその中に入ってみたくなるような、女性なら抱きしめたくなるような、そんな絵を描きたい」って言ったルノワールは、やっぱり“師匠”が教えてくれた通り、女性が好きなんだなと思った。
画家としての成功を収めて、ルノワールの“苦悩”の話は、これで一件落着すると思ったから、僕はお手洗いに立とうとしたけれど、“師匠”が話を続けたから、少し我慢することにした。
『眠る女』を描いた1897年に、リウマチを発症してしまったルノワールは手足が麻痺してしまう。それでも、激痛に耐えながら絵筆を手に縛り付けて、創作を続けたという壮絶な話を聞いても、彼の描く作品からは、まったく想像もつかない。
(つづく)