1903年5月に急死したゴーギャンはいわゆる孤独死で、死後数時間してから近隣の住民によって遺体が発見された。しかも故郷のパリに訃報が届くのは3か月後で、自業自得とはいえ昔の画家仲間は誰もゴーギャンの消息について気にもかけていなかったのだと思う。死後には財産が競売にかけられて、その売り上げの4,000フランは本妻の手に渡ったようだから、身勝手な夫の死後にようやく少しでも報われたのならば良かった。
ただ、ゴーギャンは身勝手な行いの割に運が良かったと言えないこともない。家庭を持ち二人の子供を儲け、株式の売買で成功し、素人画家なのに印象派に認められ、行く先々で現地妻を囲い、晩年には画家として生計も立てられた。結局は自業自得ですべてを失うのだけれど、それならば少しでもゴッホに運を分けてあげて欲しかった。
何故か死後すぐに諍いのあったカトリック教会の墓地にゴーギャンは埋葬されたけれど、自死を疑われて埋葬を拒否された敬虔過ぎるほど敬虔だったゴッホは没地の森にひっそりと弔われたのだから神さまは残酷だ。ただ、今ではゴッホの隣には最愛の弟テオが眠っているけれど、ゴーギャンの隣にはまるで見張られているかのように悪態を吐いた司教が眠っている。
ゴーギャンの死後16年後に彼をモデルにしたと云われているサマセット・モーム「月と6ペンス」が出版された。他人に迷惑をかける主人公は確かにゴーギャンと似ているけれど、芸術の為にすべてを捨てた男として描かれているから、少なからず今の好意的なゴーギャン像に影響を与えているはずだ。
日本でいえば、明治政府のプロパガンダと、司馬遼太郎の小説と、福山雅治の熱演のおかげで、過大評価されている坂本龍馬のようだ。ただ僕は「月と6ペンス」が“夢”と“現実”、“理想”と“世俗”を意味すると聞いてから、ゴッホの『夜のカフェテラス』(1888年/クレラー・ミュラー美術館)を想い起こしてしまうから、実は主人公はゴーギャンとゴッホを足して2で割っているんじゃないかと思っている。タイトルこそ“カフェテラス”だけれど、ゴッホにとって重要なのは背景の穢れなき“理想”の世界としての星空であって、カフェテラスは“俗世”を象徴するために描かれている。
サマセット・モームは、幼くして母親を亡くし、自身も吃音に苦しみ、人生の中で孤独感を感じていたと云われているから、ゴーギャンだけではなくゴッホの孤独感にも共感していたはずではないかと思うのは、まったくの想像だけれど、元英国諜報部員であった他にも同性愛者で知られている彼が、ゴッホとゴーギャンの歪んだ友情に興味を持って、さらに相反する二人の人格を有した主人公に仕立てたというのは、通俗の先にある人間の矛盾を表現したサマセット・モームならばあり得るかもしれないし、勝手ながらむしろそうあって欲しい。
勝手な話を続けさせてもらえれば、ゴッホもゴーギャンも厄介な人物だというのは置いておいても、僕は純粋すぎるゴッホの作品は痛々しくて注視できないし、外連味が過ぎるゴーギャンの作品も仰々しくて好きになれない。だからといって僕の中に純粋さや自尊心がないとは思っていないけれど、お叱り覚悟でいい加減なことを言えば、‟外連味”と‟純粋”の両翼に二人がいる気がする。だからあんなにすごい絵が描けるのだとも思う。
一方で、美術アカデミーの“師匠”は、幼少の頃に母親に連れられて来た美術展で、ゴーギャンの作品について「大地から女性が生えてきている」と説明されてからというもの、ゴーギャンの作品から、そこはかとない生命力を感じるのだと仰る。
もちろん僕よりも美術について造詣の深い“師匠”でさえ、(もう何の絵かも覚えていないとはいえ)幼少期の記憶から作品を切り離して観ることはできないのだから、基本的には感覚的な“好き嫌い”で観賞すれば良いのだと思うし、そんなことなら、画家の人生にまつわる話なんて知らなければ良かったと思っているのに、道連れが欲しいわけではないけれど、わざわざご紹介しているのは少し申し訳ない。
(了)