ヴェネツィアの自由な気風で育ったヴェロネーゼは、美術史上最大級の『レヴィ家の饗宴』(1573年/ヴェネツィア・アカデミア美術館)を、意図的に対抗宗教改革に反抗的な態度で創作したのは明白だけれど、それを許したサンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂もたいがい暢気だ。お陰でヴェロネーゼは“異端審問会”に呼び出されてしまう。
厳粛なはずの「最期の晩餐」をヴェネツィア貴族の賑やかな祝宴として描いた上に、“道化師”や“酔っぱらったドイツ人(ゴート人)”“小人”“鼻血を流す召使”“フォークを使って歯の掃除をする人”、しかもマグダラのマリアの代わりに“犬”を描き込むものだから、下品であると見做されてしまったからだ。
西ローマ帝国を滅ぼして暗黒の中世を創った“野蛮な”ゴート人は、一方でヴァチカンと手を組んでヨーロッパでの勢力を広げていくのだから、彼らへの忖度もあったのかもしれない。とはいえ、“宗教裁判”ではなくて“審問会”だから、ヴェロネーゼがいきなり罰せられることもなかったのだと思う。
しかし、この審問会でヴェロネーゼはヴェネツィア美術を背負って一歩も引かない。矢継ぎ早にこの作品の真意を問い質す審問官たちの言葉を遮ってこう言い放つ。「画家は詩人や狂人が考えているようなことを絵にします」。巻き込まれた詩人には迷惑な話だけれど。
それどころか、ミケランジェロの描いたイエス・キリストや聖人たちの裸について「これらはキリスト教への尊敬を欠いていませんか?」「私は何者にも縛られずに自分自身のインスピレーションと理性に従って作品を描きます」とまで反論したらしいけれど、もちろん聞き入れてもらえるはずもなく、厚顔で狡猾な異教徒の面相をしていると断じられて、神を冒涜する作品を3か月以内に描き変えなければ今度は本当に罰するという裁きを受けてしまった。
一度は受け入れてローマを後にしたヴェロネーゼだけれど、実際に変えたのは作品の内容ではなくタイトルだ。こうして『最期の晩餐』は『レヴィ家の饗宴』と名前を変えて史上最大のお茶を濁した。濁せたのもやはりヴァチカンから遠く離れたヴェネツィアだからこそだと思えば痛快でもある。
とはいえ美術の流れは、カトリックの対抗宗教改革を背景にして、ローマでもヴェネツィアでもなくなく、カトリックの本拠地スペインを中心に絵画黄金時代のバロック期へと移行していく。秩序を重んじたフィレンツェ的な美術は、一方でミケランジェロのような動的表現とは相容れないものであったけれど、ルーベンスがそうしたようにヴェネツィア派の直接感情に訴える色彩の力も採り入れて、バロック美術は絢爛豪華な作品へと昇華させた。
ハプスブルグ家を庇護者にした豪華絢爛なバロック美術は、偶像崇拝を禁じたプロテスタントに対抗するための象徴として、識字率の低かった民衆の信仰心を煽るための格好のツールだった。
フィレンツェ、ローマへと移動して活躍したルネサンスの画家たちが、16世紀初めにマンネリスムに陥ったのに比べれば、より長く16世紀末までヴェネツィア派の系譜は続いたけれど、独自の発展を助けたヴァチカンから離れた地政学的な理由は、一方で排他的でもあり、しかもティツィアーノという巨匠が存在したために、それ以外の個性を認めない傾向があったのも本当で、実際に独特の個性を持ったロレンツォ・ロット(1480~1557)などはヴェネツィアを出てイタリア各地で活躍した。
大航海時代にポルトガルやスペインが海上貿易の利権を独占するようになると、ヴェネツィアの栄華にも陰りが見えて、ヴェネツィア美術の勢いも衰えてきた。それに加えて、ティツィアーノの知名度がヴェネツィアへの耳目を集めたことで、ヴェロネーゼの描いた『レヴィ家の饗宴』にローマ・カトリック教会が気付き、以後カトリック的ではない美術品を迫害するきっかけになって、ヴェネツィアがヴェネツィアたる所以でもある自由な創作への障害になったことはきっと間違いないのだと思う。まさにヴェネツィア美術発展の連鎖は、ヴェネツィア美術衰退への連鎖であったということだろう。
(了)