最初は「こんなものはただの“印象”で、鑑賞する価値がない」と酷評された印象派をめぐるドラマが、若い画家たちの青春群像として、特に日本では好んで語られているけれど、実はその“父”マネは、印象派展の開催に際して「やめておいた方が良い」と反対をしている。これに対してドガは「あいつは何もわかってない。彼は利口ぶっているが、ただのうぬぼれやだ」と罵ったらしい。
しかし、印象派を壊した張本人のひとりとして名前の挙がるドガは、確かに気難しくて不遜ではあったけれど、マネとは仲が良かったのだから、この偏屈な2人の友情は、常人の想像の範囲ではない。
前述の罵詈雑言もただの悪口ではなくて、マネを良く知る友人から見た本音ではないかと思う。マネの死に際してもドガは「僕たちが思っていたよりもずっと偉大だったかもしれない...」と追悼しているけれど、死者への手向けなのだから、ただ「彼は偉大だった」と言えば良いものを、決して言葉を飾ったりはしていない。
ふたりの奇妙な関係を表しているのが、ドガがマネ夫妻に贈った『マネとマネ夫人像』(1868-69年/北九州市市立美術館)だ。横柄な態度でソファーにだらしなく腰掛けるマネの傍らで夫人がピアノを弾いているけれど、壁か何かに遮られて夫人の顔が見えないのが明らかに不自然だ。しかし、これは見えないのではなくて、ドガの描く夫人の顔が気に入らなかったマネが、あろうことかその部分だけキャンバスを切ってしまったらしい。
気難しさでは引けを取らないドガは、もちろん怒ったものの、もう一度描き直そうと持ち帰りキャンバスを継ぎ足したけれど、途中でやめてしまったので今でもこの何とも奇妙な作品は、北九州市市立美術館で観ることができる。それでも友人であり続けた、ふたりの心の内はやはり僕には理解できない。
『アイロンをかける女』(1884-86年/オルセー美術館)のように、ドガは19世紀パリの市民生活の中で、モデルの一瞬の仕草や動きを、優れたデッサン力で、まるでその内面さえキャンバスに描き映した画家だから、切り取られた夫人には申し訳ないけれど、遺されたマネの姿に注目すれば、彼の尊大さと漲る自信が見て取れる。
もちろんこの頃のマネは「印象派の父」ではない。それどころかフランス美術アカデミーが主催する「サロン(官展)」に10年間出品し続けて、入選と落選が半々くらいのパッとしない画家だ。いや、それどころか酷評を浴び続け、画壇だけでなく市場の評価も今ひとつだった。
翌年のサロンに無条件で出品するためには、銀賞以上の評価をもらわないといけなかったから、“入選”とはいっても展示会場に飾ってもらえるだけの“その他大勢”であったのに、そこにさえ届いていない駆け出しの画家の態度にしては、少し尊大過ぎないか?とドガの描写を疑ってしまうけれど、どうやらマネはそういう人物であったらしい。
いわゆる難物というわけだ。ただ、僕にはこの不遜さが時に“滑稽”にさえ見えてしまう。もちろん、「印象派の父」としてだけ語られるには惜しい、画家マネの大いなる魅力なのだけれど「良い意味で」と必ず付け加えるのに、相手には伝わりにくい。
お叱り覚悟で、僕が思うに「印象派の父」マネは、拗らせた反抗期と、権威に対するコンプレックスを併せ持った、自信のない寂しがり屋だ。それでも後進たちがマネの周りに集まって来たのは、裕福な家庭に育ったマネの経済的援助が目当てだったとまでは言わないけれど、もっともお金を無心していたモネが、中途半端にしか花が開かずに散ったマネの死後、もっとも名誉の回復に努めたのは本当らしい。良い意味で...
(つづく)