(蘭)ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ(1853~1890)のように、生前に売れた作品はたったの1枚で、死後に再評価される画家たちがいる一方で、現世で人気を得た画家たちは、殺到する注文に応えるために、大工房を構え、多くの弟子たちを抱えて分業した。
特にそれは、画家たちがキャンバスに向かうだけでなく、天井画や壁画といった大画面の創作や、建築物そのものの設計を手掛けていた近世(1453東ローマ帝国滅亡~1788フランス革命)に多い。
中でも有名なのが、ルネサンス期の巨匠(伊)サンドロ・ボッティチェリ(1444~1510)、(伊)レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452~1519)を輩出した「(伊)ヴェロッキオ(1435~1488)」の工房や、ヨーロッパ中の貴族を虜にしたバロックの巨匠「(フランドル)ピーテル・パウル・ルーベンス(1577~1640)」のアントウェルペン工房だ。
アントウェルペン工房では、ルーベンスが描いた割合によって、作品の値段を決めていたと云われている。童話『フランダースの犬』の主人公ネロが、クリスマス・イブの夜に訪れたアントウェルペンの教会で、愛犬パトラッシュと最期に見上げた憧れの絵は、『聖母被昇天』ピーテル・パウル・ルーベンス(聖母マリア大聖堂/1625~1626年頃)で、工房で創られた高さ490cm、幅325cmの大作ではあるけれど、9割方をルーベンスが描いたと云われているから、興醒めで恐縮だけれど、結構な価格だったと思う。
ところが同じ時代に、これら巨匠たちを超える工房が、我が国に存在したというのだから、これはもうご紹介せずにはいられない。
15世紀室町幕府の御用絵師(日)狩野正信(1434頃~1530)を始祖として、戦国の世を経て江戸時代までおよそ400年も続いた世界に類を見ないスケールの画家集団「狩野派」だ。
その中でも、正信の孫であり狩野派4代目(日)狩野永徳(1543~1590)は、狩野派中興の祖にして日本美術史上最大の画家と云われている。
「時代を表現するために生まれ、時代は彼のために用意された」とまで云われた狩野永徳は、華やかな芸術が花開き、日本のルネサンスとも云われている安土・桃山時代に、それまでの日本画にはなかった、絢爛で勇壮な大画面の作品で、戦国の世の空気を見事に描いている。
まさに、芸術とは「時代に寄り添うこと」だとすれば、戦国の世から江戸時代までの約400年もの間、時代に寄り添った狩野派は、世界に類を見ない長期に渡る芸術運動でもあるのだと思う。
彼の作品は、戦禍で多くが焼けてしまっていて、残念ながら10数点が現存するのみと云われているけれど、その中でも日本絵画史上最高傑作と評されるのが、『唐獅子図屏風』狩野永徳(三の丸尚蔵/16世紀後半桃山時代)だ。
唐獅子は、中国から伝わった架空の動物で、権威や権力の象徴として勇壮に描かれている。縦2m、横4mの大作は、通常の屏風よりも大きなサイズなので、障壁画として描かれた作品を屏風に張り替えたらしい。
永徳の力強い画風は、群雄割拠の世の中を生きる武将たちの気風と合致して、時の権力者たちの寵愛を受け、狩野派は絶頂期を迎える。ただ、それは決して順風満帆なものではなく、時代の政治にも翻弄されていくことになるのだけれど、それを救ったのは先代から脈々と続いてきた「狩野派」のDNAだった。
(つづく)