コラム, 美術の皮膚

【コラム】美術の皮膚(57)「おしゃべりな絵画~反骨の画家ゴヤ~」

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ゴヤは、27歳で宮廷画家の妹と結婚する。そして2年後に義兄の援助で、同郷の巨匠(西)ベラスケスのような宮廷画家になることを夢見て再び首都マドリードへ向かい、タペストリーの原画「カルトン」を描く職を得る。

せっかく義兄の推薦で職を得たにも拘らず、タペストリーにするためにカルトンの色は限られているのに、多くの色を使って織物職人から反発されたりする。しかも、義兄に注意をされてちょっとカルトン画の制作に嫌気がさしてきたらしいから、これはもう“反骨”というより“我儘”だ。

しかし、独創性を何よりも大事にして創作に妥協をしなかったゴヤは、郊外のレストランに飾られるはずだったタペストリーの原画『日傘』(1777年/プラド美術館蔵)にも手は抜かなかったから、1780年には2度も落選した王立アカデミーに入会が認められた。後には主任画家にも就くから“負けず嫌い”なゴヤの留飲も下がったことだろう。

すると肖像画の依頼が舞い込むようになる。37歳の時に描いた『フロリダブランカ伯爵』(1783年/スペイン・アメリカ銀行蔵)は、大いに伯爵を満足させた。それは、写実的な作品が伯爵によく似ていたからといった表面的なことではなく、画面に描かれた写実を超えた“情報量”の賜物であったのだと思う。

伯爵の内面的な魅力を表現するために、手に持ったメガネは“審美眼”を、足元にある本は“知性”を、机の上にある書類は“業績”を讃えてるように描かれている。そして、しっかりと画面左には観察者としての自分を描き込んでアピールもしている。

ゴヤは、男性の依頼者には、その威厳を表現する一方で、『乗馬のマリア・テレーザ・ディ・ヴァラブリーガ』(1783年/ウフィツィ美術館)のように、女性は“光”の効果を巧みに使って魅力的に描いて魅せた。

帽子による顔の陰影やドレスや襟元のレースに当たる光の微妙な表現を駆使した、パステル調の色彩や柔らかな筆のタッチが人気を集めると、いつしかゴヤは肖像画の名手として評判になり、40歳の時には国王カルロス三世付き画家に就き、国王の没後に引き続きカルロス四世の宮廷画家に任命される。

ゴヤの“反骨”も成功によって少し和らいできたかと思ったら、46歳の時に旅先の病で聴覚を失ってしまう。だからではないと思うけれど、再び“反骨”の精神が目を覚まして、人間の内面を見つめ、その暗部を抉り出すような作品を描き出す。

聴覚を失いその他の感覚が鋭敏になったとはいえ、代表作はこれ以降に多いのだからゴヤの真骨頂はまさに“反骨”にあるのだろう。

52歳の時には、強烈な社会批判を含んだ連作版画『ロス・カプリチョス』ゴヤ(1799年)を出版する。当時のスペインに蔓延していた“売春”や、聖職者の“堕落”を「理性の眠りは怪物を生む」と糾弾した。

カルロス四世の家族

しかし“反骨”である一方でその画力が買われて1799年主席宮廷画家に就くと国王カルロス四世の家族を描く集団肖像画に着手する。かなりの問題作『カルロス四世の家族』(1800~1801年/プラド美術館)は歴史画の最高傑作とも云われている。

18世紀半ば衰退に向かうスペインを統治していたカルロス国王は、本来は画面中心に来るはずなのに、趣味に明け暮れた浪費家としてうつろな表情で右側に追いやられている。

代わって中央に描かれているのは実権を握る王妃だけれど、くすんだ肌の上にほとんど入れ歯だった口元には皺が寄り、国王の姉はくぼんだ眼とやつれた顔で描かれている。しかし、一方で王家の虚栄を勲章や衣装を色鮮やかに表現しているから、余計に人物の貧相が際立っている。

ゴヤの「おしゃべり」はそれだけには止まらない。画面左端には王妃と仲の良くなかったフェルナンド七世がいて、その顔には光が差し野心に満ち溢れているように見えるけれど胴体は影の中に埋もれて、何か不安な未来を暗示している。

実際に、この7年後に父である国王を追放し自ら王位に就き、しかし後にナポレオン軍に国を売り渡しスペインを荒廃に導くのだから、またしても画面左奥にまるで観察者として描かれているゴヤの慧眼は計り知れない。

そして、あろうことかこの作品には王室にまつわるゴシップさえ描き込まれている。画面に描かれている6人の王子と王女のうち王妃が手を繋ぐ王子は、当時王妃の愛人だったマヌエール・ゴドイ宰相との子供であると暴露するように“不倫”を意味する赤い衣装を着ているから、もちろん王妃は激怒したらしい。

“情報量”もさることながら物凄い“反骨”だ。

つづく

高柳茂樹
一般社団法人日本美術アカデミー
プランニングディレクター
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