コラム, 美術の皮膚

【コラム】美術の皮膚(71)「“幸福の画家”の苦悩~分け与えるほどある幸福~」

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自転車事故が原因で患ったリウマチの病状は、一向に良くならなかったから、1907年66歳の時に、ルノワールは静養のため、温暖な気候を求めてパリを離れ、若い頃に旅したイタリアにほど近い、南仏カーニュ=シュル=メールに、家族を連れて移住する。

今では“芸術村”として有名なカーニュは、(伊)モディリアーニ(1884~1920)や(露)スーティン(1893~1943)、(日/仏)レオナール・フジタ(1886~1968)といった20世紀「エコール・ド・パリ」の画家たちも暮らしていた、地中化に面した南仏屈指のリゾート地コートダジュールにあって、カンヌとニースに挟まれた自然が豊かな街で、結局この土地でルノワールは最晩年の12年間を過ごすことになる。

丘の上にある歴史地区「オード=カーニュ」は中世の面影を残し、その頂上には14世紀初頭に建てられたグリマルディ城が、今では「地中海近代美術館」になっている。ルノワールが住んだ「コレット荘」も「ルノワール美術館」として遺っている。

温暖な気候と、愛する妻と3人の子供に囲まれて穏やかな日々を過ごす中で、ルノワールが60歳の時に生まれた三男クロードを描いた『道化師』(1909年/オランジュリー美術館)から感じられるのは、一番身近な家族の存在に、自らの幸福を見つけた“幸福の画家”の“幸福の時間”だ。

明るい光を浴びて輝く地中海、溢れる美しい花々といった、自然の生命力もルノワールの創作のテーマになっていく。『コレットの農家』(1915年/ルノワール美術館 蔵)は、淡い色彩で豊かな自然が表現されていて、どことなくモネの描く風景画に似ていると思った僕は「ルノワールは人物画家にこだわって、印象派を離れたんじゃないんですか?」とクレームをつけるには、“苦悩”の果てに自らの幸福を見つけた“幸福の画家”に感情移入し過ぎていたから、人物にこだわっていたルノワールが、自然に帰っていくことを、むしろ喜んでいた。

実際に、ルノワールは自宅の目の前にあったオリーブの木々が、伐採される計画だと聞くと、それを守るために土地ごと購入するほど、カーニュの自然を愛していた。

私事で恐縮だけれど、僕が入学した当時の母校は、創立3年目だったから、グラウンドを拡張するために林を伐採することになって、野球部だった僕は喜んでいたけれど、普段は温和な美術の先生が、涙を浮かべて怒っていたことを、この話を聞いて思い出したから、久しぶりに先生に会いたくなった。

そして、お手洗いに行きたかったことも思い出したのだけれど、“幸福の画家”の“幸福の時間”は、そう長くは続かないから、もう少し我慢することにした。

ルノワールのリウマチは悪化して、手足の麻痺はいよいよひどくなり、車椅子での生活を余儀なくされて、画家の命である手の指までが変形してしまう。絵具が絞れない父親のために、三男のクロードは絵具をパレットに出すのを手伝ったりして、それでもルノワールは激痛に耐えて、家族の支えの中で創作への意欲を燃やし続けた。

さらに1915年に最愛の妻アリーヌが56歳で亡くってしまう。しかし、失意の中でもルノワールは筆を置かずに、再び大作に挑む。酷評を受けた『大水浴図』から30年を経て、集大成となる『浴女たち』(1918-1919/オルセー美術館 蔵)が完成する。

俗女たち

僕が“当てずっぽう”で挙げた『浴女たち』には、幸福の画家ルノワールが生涯をかけて追及した“美”の要素が詰まっていると云う。印象派時代に手に入れた暖かい色彩、効果的に赤色を使って生き生きと描かれている生命力溢れる裸婦、画面左下には古典絵画で「ヴィーナス」を暗示する薔薇の花、背景には愛して止まなかったオリーブの木、そのすべてがルノワールの愛したものでできていた。

この絵が完成した年の12月に、ルノワールは亡くなる数時間に「絵の描き方がようやく解り始めた。まだまだ上達していくような感じがする」と言って息を引き取ったらしい。

ルノワール本人に尋ねることができないから、志半ばで亡くなった画家の人生を“幸福”ではないとするか、愛するもので埋め尽くした人生を“幸福”と感じるかは、余計なお世話かもしれないけれど、彼が遺した作品が、人々を“幸福”な気持ちに導いてくれているから、僕は「他人に分け与えるほど、“幸福”に満ちた人生だった」と思うことにする。

(了)

高柳茂樹
一般社団法人日本美術アカデミー
プランニングディレクター
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