民族の自立を許容しながら、平和裏に広大な領土を統治していたハプスブルク家の方針は、すっかりヒステリックな民族意識の時代に乗り遅れてしまったことになるけれど、国力を総動員して戦う世界大戦は、一度ならず2度も起きて、ハプスブルク家とそれほど所縁のないアジアの辺境日本にも莫大な戦禍を及ぼすことになる。
1914年から4年間続いた世界大戦中に、オーストリア・ハンガリー帝国の皇帝カール1世が祖国を捨てて亡命したことで“戦争が苦手な”ハプスブルク家はおよそ600年の歴史に幕を下ろした。大雑把だけれど、ハプスブルク家がヨーロッパをひとつにまとめてオスマン帝国の侵略を防ぎ、長きに渡って文化や芸術の発展に大きな影響を与えたと言っても過言ではないと思う。
男系が途絶えたマリア・テレジア以降は、それまでと区別するために“ハプスブルク・ロートリンゲン家”と呼ばれているけれど、それも含んで統治者としてのハプスブルク家は600年近く続いた。
ヒステリックに始まった戦争も、終わってみれば誰かに責任を擦り付けて手打ちをしなければならなくて、ハプスブルク家の血筋が絶えた訳ではないから、オーストリアには「ハプスブルク=ロートリンゲン家の国外追放と財産没収に関する1919年4月3日の法律」が制定された。
栄華を極めたハプスブルク家一族は、財産を没収されて国外に追放されたけれど、プライドを捨てて一介の市民に戻ることを約束すれば、その限りではなかったから、中心から少し離れたイタリア方面の“ハプスブルクさん”たちは、早々にこの法を受け入れて今でもかなりの資産を所有しているらしい。
ただ、ハプスブルク家のど真ん中にいた(亡命したけれど)カール1世は、当然これを認める訳もなく、しかも没収した財産は一度ヒトラーによって略奪されたりするから、何が何だか解らないけれど、再度ドイツからの独立を果たした今でもこの法律は活きているらしい。
本家ハプスブルク家の莫大な財産は、戦争からの復興に使われたりしてはいるものの、ハプスブルク家以外のオーストリア貴族たちには適用されず、彼らは今でも広大な土地や資産を持っているらしいから、不平等も甚だしい悪法だと巷間言われてもいる。
カトリックを擁護して聖人の一歩手前の福者となったカール1世の孫にあたる現ハプスブルク・ロートリンゲン家当主のカール・ハプスブルク・ロートリンゲン(1961~)は、今でもヨーロッパ諸国の王侯貴族やローマ教皇からは“殿下”と呼ばれていて、誰が決めたのか解らないけれど、オーストリア、ハンガリーだけではなく、ボヘミアやクロアチアの王位請求者だとされてもいるから、ハプスブルク家が途絶えたというのは、もしかしたら間違いで、今でも脈々と血筋は続いている。
それどころか、カール・ハプスブルク・ロートリンゲンは、オーストリア政府にハプスブルク家の財産を返還せよと訴えながら、メディアを保有する実業家で、ヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーが立ち上げたヨーロッパ統一運動を旨とする国際汎ヨーロッパ連合の二代目会長だった父オットー・フォン・ハプスブルクと同様に、汎ヨーロッパ主義者として政治的な活動(国際汎ヨーロッパ連合オーストリア支部長)も行っている。
ちなみに、カールには子供が3人“しか”いないけれど、兄弟は6人いて甥っ子と姪っ子を合わせると19人もいるから、父オットーはハプスブルク家の多産の伝統を辛うじて守った。
とはいえ、ハプスブルク帝国の公式終焉は1918年11月11日となっている。実はこの年の2月に、オーストリアを代表する画家もその生涯を終えている。(墺)グスタフ・クリムト(1862~1918)だ。錦絵の影響を受けたジャポニスムの画家として知られているクリムトだけれど、彼の金色の鮮やかな作品が、ハプスブルグ家最後の煌めきのように見えてしまうのは、少し感傷が過ぎるのかもしれないけれど。