高名な画家である父よりも、年長の兄よりも、一族の中でもジョヴァンニ・ベッリーニが最も重要な画家だと思う理由に、義兄のマンティーニャ(1431~1506)の存在がある。ヴェネツィアから西へ30kmほどの距離にあるパドバの巨匠マンティーニャとベッリーニは、同じ構図で『キリストの神殿奉献』を描いていたりするから、歳の近い二人には交流があったに違いない。
しかもこの二人は、構図だけではなくて共に“聖母マリアが生まれたばかりのイエスをエルサレムにある神殿に捧げに行く”「新約聖書」の中の神聖な場面“神殿奉献”に、あろうことか自分たちを描き込んでいるのだから、ヴァチカンから遠く離れたヴェネツィアとパドバの自由な気風で意気投合したと思われる。
マンティーニャは『死せるキリスト』(1490年代/ブレラ絵画館)で、(フィレンツェのそれとは違う)遠近法のひとつ“短縮法”を使って、当時はご法度の(神々しくない)生々しいキリストの死体を写実的に描いていて、少なからず義兄から影響を受けたベッリーニは、色彩による“感覚的”な表現に加えて“科学的”な写実表現からも影響を受けているから、所謂ヴェネツィア絵画はジョヴァンニ・ベッリーニから始まっていると言って良いのだと思う。
そして、ベッリーニから始まるヴェネツィア絵画の系譜は、ラファエロによって完成された故に、マンネリの語源でもある“マニエリスム”へと移行せざるを得なかったフィレンツェ派に比べて、実に華々しく続いていく。これに関しては、フィレンツェの庇護者メディチ家が成り上がりの欲深ゆえに敵を作り修道士サヴォナローラの台頭によって繁栄が陰りを見せたのに対して、元々が逃げ延びた辺境の干潟で繁栄したヴェネツィアが身の丈を弁えていたからではないだろうかと勝手ながら思っている。
今でも人気の高いバロック期(オランダ絵画黄金時代)のフェルメールと並んで、西洋美術史上もっとも謎に包まれている伝説の画家ジョルジョーネ(1476/頃~1510)もベッリーニの弟子だ。
夭折の画家ジョルジョーネは、1500年頃からわずか10年程度しか画家として活動していない上に、教会の監視下にはないヴェネツィアでは皮肉にもほとんど記録が遺っていない。実際に今では、確実に彼のものだと云われている作品はわずかに5~6点程度しかないし、画家自身の謎に加えて、彼の作品もまた多くの謎を含んでいるから、ダヴィンチ・コードよりもよほど大きな興味を持つ専門家たちによって、その数はもしかしたら増えるかもしれないけれど。
長い間ラファエロの作品であると云われてきた『ユディト』(1504年頃/エルミタージュ美術館)も近年になってジョルジョーネの作品だと特定された。旧約聖書に出てくるユディトは故郷に侵攻してきた敵将を色香で欺いて寝首を掻いた女性として、サロメと並んで度々描かれているけれど、感情表現が豊かなカラバッジョ(1573~1610)の『ホロフェルネスの首を切るユディト』(1596年/ローマ国立美術館)に比べても艶やかさは一目瞭然だ。
打ち取った首を踏みつけて微笑みさえ浮かべるユディト...なんだか生首の主ホロフェルネスも少し嬉しそうにしているこの絵は、ベネツィアでなければ描けなかったはずだ。厳格に既定されていた「旧約聖書」の解釈を、教会の目を気にせずこれほどまでに妖艶かつ背徳的に描いた作品は、19世紀末象徴主義のモローを待たなければならない。
ジョルジョーネの作品の特定が難しい理由は、記録が少ないだけではなくて、僕の知る限りでもいくつかある。教会の支配が及ばないヴェネツィアで描かれたジョルジョーネの作品は、それまでの不文律を踏まえた絵画とは違って、聖書や神話の寓意は含まれず、レオナルド・ダ・ヴィンチに優るとも劣らないスフマート技法を駆使した抒情的な表現で自由に描かれている。しかし、それが皮肉にも主題の解釈を困難にさせて、画家の特徴をぼやかしている。
(つづく)