コラム, 美術の皮膚

【コラム】美術の皮膚(173)マネの黒とマネの闇~父がファザコンだと子もファザコン?~

今までの連載はコチラから

一般的にマネは、印象派を経済的に支えながら、自身は保守的なフランス画壇に風穴を開けようと挑戦を続けた「印象派の父」だけれど、実際は本人の尊大な態度とは裏腹に、それほど余裕のある感じじゃないことを、お叱り覚悟でご紹介してきたけれど、20年以上にも渡る官展(サロン)への挑戦の足跡を見れば、ご理解いただけるとも思う。

反抗期を拗らせたまま過度に挑戦的で、権威に対してコンプレックスを持ちながら権威に拘り、なかなか認められない自身の境遇を時代のせいにして、それでも認められるためなら方法を選ばないマネは、一方で後進たちには尊大に振舞うかなりの難物だ。そしてそれは時に滑稽で、とても魅力的だと思うから、繰り返しになるけれど「印象派の父」としてだけ語られるには惜しすぎると何度でも言いたい。

満を持してなのか?切羽詰まってなのか?本人に聞いても本当のことは教えてくれないだろうけれど、10年近くのモラトリアムを経て官展(サロン)に出品した『アブサンを飲む男』(1859年頃/ニイ・カールスベルグ・グリプトテク美術館)は、1000点以上も選ばれる入選作にさえ届かずに落選した。思えばここからマネの闇はいよいよ深くなっていくように見える。

Edouard Manet The Absinthe Drinker Google Art Project
アブサンを飲む男」/image via wikipedia

イタリア古典美術偏重のフランス画壇に反抗して、スペインのゴシック美術偏重の作品が認められる訳もなく、しかしこれ以降のマネが徹頭徹尾スペイン的な作風を貫いたかというとそうでもないので、僕はあえて「ただ他と違うことをしたい」という幼稚な反抗期を拗らせてると言ったけれど、もちろんそれだけではないとも思っている。

彼はただひたすらに世の中に認められたかったのだと思う。世の中に認められることによって父親に認められたかったとすれば、かなりのファザコンでもある。認めてもらえなかった結婚を、父親の死後すぐにしたことを例に採るまでもないけれど、“父”がファザコンというのもなかなかに愛嬌のあるお話だ。もしかしたら、印象派との共依存関係の原因もそこにあるのかもしれない。

しかし、ドガが言ったように“理屈”が勝ちすぎて迷走していく様は“父”としては、何れにしてもあまり格好の良いことではないけれど、同じ時代の画家たちが必死に認められたいと頑張っているのだから、その渇望は極めて当たり前のことでもあるのに、マネには画家エリートたちへの憎悪にも似たコンプレックスがあるから、承認欲求を満たすには、王道ではなく奇を衒って創作するしかなかったのかもしれない。それを経済的な余裕と尊大な態度で誤魔化しているところは、やっぱり滑稽で愛すべき人間だけれど。

とはいえ、スペインに目を付けたのがマネだけだったのかというと、別にそんなこともなくて、当時のフランスはちょっとしたスペイン・ブームでもあった。そして少し経つとジャポネズリー(日本趣味)のブームもやって来るのだけれど、マネはまんま流行に乗っかっただけだともいえる。

今でこそ芸術の都パリなどといって気取っているけれど、元々フランスは文化後進国で、負けず嫌いのフランソワ1世が、当時スペイン国王が皇帝位に就いていたライバルの神聖ローマ帝国に対抗して、1516年にはレオナルド・ダ・ヴィンチを招いたり、その後もフォンテーヌブロー城の建設に外国人芸術家たちを招聘したりしたものの、ぱっとしないまま、庶民に不人気の宮廷芸術ロココの発祥だったりした程度で、ナポレオンがヨーロッパ中から戦利品として芸術作品を略奪したころから、なんとなくそんな感じになったけれど、本格的に芸術の都になったのはミュシャやロートレックのポスター画が、街を彩った19世紀末からだという人もいる。

マネの生きた時代は、イタリア古典美術に傾倒するダヴィッドアングルの新古典主義と、まるで現在の新聞のような役割として“今”を描いたジェリコードラクロワのロマン主義が鍔迫り合いをしながら、借り物ではないフランス独自の芸術を模索していた時代だ。

今でもフランスは世界中の優秀なクリエータを集めて、ブランディングの妙で自国のコンテンツにすることが上手い。ファッション・ブランドのトップデザイナーの多くが外国人であったり、なんならエッフェル塔もドイツ系フランス人のエッフェルの設計だ。

つづく

高柳茂樹
一般社団法人日本美術アカデミー
プランニングディレクター
    スポンサードリンク

これまでの「美術の皮膚」