コラム, 美術の皮膚

【コラム】美術の皮膚(178)マネの黒とマネの闇~近代絵画の夜明けは迷走の始まり?~

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落選の憂き目や酷評を浴びながらも、繰り返しマネは「官展(サロン)」に挑戦し続けてくれているから、その作品を時系列で見ると、マネの画風が落ち着かないことは解りやすい。

1859年(サロン出品)

Edouard Manet The Absinthe Drinker Google Art Project
落選:「アブサンを飲む男」/image via wikipedia

1861年(サロン出品)

Edouard Manet Le chanteur espagnol
入選:「スペインの歌手」/image via wikipedia
Edouard Manet 077
入選:「オーギュスト・マネ夫妻の肖像」/image via wikipedia

1863年(サロン出品)

Edouard Manet 082
落選:「エスパダの衣装を着けたヴィクトリーヌ・ムーラン」/ image via wikipedia
Edouard Manet Mlle Victorine Meurent in the Costume of an Espada
落選:「マホの衣装を着けた若者」/ image via wikipedia

作品タイトルにもあるように、ここまではパリの“今”を描くのだと、保守的画壇が規範にしていたイタリア古典美術ではなく、当時流行していたスペイン趣味の作品を描いている。

1863年(サロン出品)

草上の昼食
落選:「草上の昼食

それまでこだわっていた“スペイン風”の作品に紛れて、官展(サロン)に出品されたのは、あれだけ反抗していたイタリア古典美術のルネサンス期ヴェネツィア派ジョルジョーネの名画『田園の奏楽』へのオマージュを含む、問題作『草上の昼食』だ。

田園の奏楽

これがマネの3度目の挑戦とはいえ、本人は決してそれが「3度目の正直」だなんて思ってはいなかっただろうけれど、確かに大きな話題になった。もちろん、“拗らせた反抗期”を歓迎したのは無責任な取り巻きたちだけで、前述の「落選展」が開催されなければ陽の目さえ見てはいないどころか、「下品、不道徳」と今までとは比べ物にならないほどの低評価を受けた。

無責任な取り巻きなんて物言いは少し乱暴だけれど、当時のマネの取り巻きは「印象派」ではなくて、バロック期スペインの写実的な作品に魅せられた画家たちで、例えば同じ頃に描かれた(仏)カロリュス・デュラン(1837~1917)『暗殺者』(1866年)を観てもらえれば解る通り、何なら少しからかい半分だったのではないかと勘繰ってしまうくらい、取り巻きたちの腕前の方が数段上だ。実際に、一向に芽の出ないマネを横目に、デュランは官展(サロン)で金賞を受賞して、売れっ子の肖像画家としてレジオン・ドヌール勲章までもらっている。

Carolus duran l assassinato o ricordo della campagna romana ante 1866
「暗殺者」/ image via wikipedia
  当時のフランス画壇も、官展(サロン)の評価基準が定まっていないから、マネだけではなくて同じ画家の同じ作風の作品が開催年によって入選したり落選したりと確かに画家泣かせではあったけれど、時代に名を遺す画家ならば、その時の世間の評価に阿るのではなくて、自らの信じた作品を描いて欲しいと思うのは僕だけではないはずだ。前述、カルロス・デュランは、(西)ベラスケスから大きな影響を受けながら、自身のオリジナルへと昇華させるだけではなく、大きな工房を構えて成功している。

『草上の昼食』をモダン・アートの夜明けだと評価する向きもあるけれど、個人的にはマネの迷走は、此処から始まったような気がする。どんな方法で自己表現するかを追求するのではなくて、ただ官展(サロン)での評価にこだわり続ければ当然のことだとは思うけれど。

「官展(サロン)」に初挑戦した1859年の『アブサンを飲む男』に始まって、それまで懲りずにスペイン風の作品を描いていたのだから、マネの美意識が本当にこのまま“スペイン”を欲していたのだとしたら、それは“風”ではなくてマネ本人の芸術に昇華したのではないかと思うのだけれど、拗らせた反抗期に加えて、恐らくファザー・コンプレックスを根に持つ権威主義が邪魔をして、「官展(サロン)」に認められることが創作の目的になっていく。

そして、残念ながら時代も“多様性”を受け入れるものだから、その後のマネの画風は“哀れ蚊”のようにふらふらと彷徨っていく。勘の悪いヒトは“多様性”に踊らされてはいけない。多様なのはそれぞれの個性の尊重であって、個の方が多様になってしまうのは少し意味が違う。

マネは画学生時代から、保守的な美術界が規範としていたイタリアの古典美術に反抗していたのだけれど、それがたった反抗期を拗らせただけの気がするのは、その後のマネの迷走ぶりがあるからだ。ヌード・デッサンの授業中に「今は裸で街を歩く人などいない」と言って着衣のモデルを描いて反抗してみせたマネが描いた『草上の昼食』を見たならば、当時の教師トマ・クチュールでなくても、少し呆れ顔になってしまうはずだ。

ただ、この頃になるとアングルに代表される新古典主義に対抗した、ジェリコードラクロワといったロマン主義が台頭してくるから、マネの嫌った伝統的な“歴史画”や“宗教画”ではなくても、“今”を描く作品を容認される空気は醸成されてきていた。

Alphonse Legros Portrait Édouard Manet
「マネの肖像」/ image via wikipedia

しかし、マネは『草上の昼食』で酷評を浴びた翌年に、さらに恥ずかしい失敗をしてしまう。皮肉にも取り巻きのひとり(仏)アルフォンス・ルグロ(1837~1911)『マネの肖像』(1863年)に描かれた、態度の大きな若者は、その事にはまだ気づいていない

つづく

高柳茂樹
一般社団法人日本美術アカデミー
プランニングディレクター
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