狩野派と長谷川派の争いは熾烈を極める。争いといっても刀ではなくて、その作品で切磋琢磨するのだから、傑作が次々と生まれた。
(国宝)『檜図屏風』狩野永徳(東京国立博物館蔵/16世紀桃山時代1590年頃)は、永徳最晩年の傑作で、豊臣秀吉が北条氏の守る小田原城を陥落させ、天下統一を果たした頃に描かれた。老いてなお強い生命力を持つ檜の太い幹を、不気味なほどにデフォルメしてみせ、一方で青々とした葉は細密で写実的に描かれている。
樹木は繁栄の象徴、背景に描かれた岩は不滅を表すと云われ、秀吉の果たした天下統一を、力強く、黄金に輝く画面で表現すると共に、自らの率いる狩野派への思いが込められた作品は、後の画家たちに大きな影響を与えた、荒々しい筆致で対象を巨大に描く「大画様式」の完成形ともいえる。
しかし、戦国の世が終わりを告げる頃に、この傑作を描き終えた狩野永徳は亡くなってしまう。永徳の死後、秀吉は等伯をより重用し、狩野派と長谷川派の争いに決着がついたように見える。
(国宝)『楓図』長谷川等伯(智積院蔵/桃山時代1593年頃)は、真言宗智山派の総本山「智積院」の敷地内にあった祥雲寺で、2歳で亡くなった秀吉の息子・鶴松の法要に合わせて建立された当時最大の客殿の障壁画だ。
悲しみに暮れる秀吉の依頼に応えた『楓図』は、等伯が後継者と目した息子との共作で、永徳の「大画様式」を意識しながらも、等伯独自の繊細な表現で、狩野派に替わって画壇の頂点を目指す気概に溢れた意欲作だ。
しかし、長谷川派の勢いも永くは続かなかった・・・
1591年に後ろ盾だった千利休が政争に巻き込まれ切腹してしまった上に、『楓図』を完成させた1593年には息子に先立たれてしまう。長谷川派には、等伯の跡を継げる者が息子以外にいなかったので、長谷川派は時間と共に衰退していく。
息子に先立たれた悲しみの中で描いたと云われている(国宝)『松林図屏風』(東京国立博物館蔵/16世紀桃山時代)は、皮肉にも等伯の代表作となっている。1610年に等伯もこの世を去って、狩野派と長谷川派の争いどころか、せっかく徳川家康が天下泰平の世を実現した頃には、日本美術に巨匠不在の危機が訪れたと思われた。
しかし、1603年江戸幕府が開かれた年に、徳川家康によって建立された「二条城」(京都市中京区)の(国宝)「二の丸御殿」大広間の障壁図を描く大仕事を依頼されたのは、狩野永徳の孫・探幽だった。なんと狩野派はしぶとい。
『松鷹図』狩野探幽(元離宮二条城蔵/1626年江戸時代)は、永徳の華麗で勇壮な画風を継ぎながら、独自の美を追求して、風格のある鷹と、どっしりとした松の木で戦国時代を終わらせた徳川家の力を表現している。
信長、秀吉のような華々しさを嫌い、質実剛健に治世を行ったイメージのある家康にも、まるでカソリック教会がバロック期の美術を利用したように、威信を示す「美」は必要だったに違いない。
(つづく)