識者の方々が、“世紀末芸術”の特徴を説明する時に、ひとつは間違いなく「目に見えないモノを描こうとした」“象徴主義”を挙げるけれど、少し遠慮がちにもうひとつ示すのが「愛欲や死をモチーフとする退廃的な背徳性」だ。“遠慮がち”な理由はなんとなく解ったけれど、まさに退廃的な背徳性を象徴するモチーフとして盛んに描かれたのが“サロメ”や“ユディト”といった聖書に登場する女性たちだ。
”ユディト”は、新約聖書の“サロメ”と違って色恋沙汰ではないけれど、旧約聖書の中で、自分の街を侵略しに来た敵の将軍ホロフェルネスを色香で惑わせて寝首を掻いて持ち帰った未亡人だ。
それまでにも“ユディト”は、ルネサンス期の画家(独)ルーカス・クラーナハ(1472~1553)『ホロフェルネスの首を持つユディト』(1530年/ウィーン美術史美術館)(1599年/イタリア国立古典絵画館)で人々のためにを犠牲にして街を救った勇敢な英雄として描かれたり、異端の画家(伊)カラバッジョ(1573~1610)『ホロフェルネスの首を切るユディト』では、躊躇いながら任務を遂行する姿が描かれたりしてきたけれど、世紀末での彼女のイメージは、“サロメ”と同様に“エロス”と“背徳”の象徴だ。
今でこそ“ファム・ファタール”といえば“運命の女性”の意味で使われることが多いけれど、もう一つの意味は“男を惑わす悪女”だから、まさに世紀末に好んで描かれた女性たちは後者の意味合いが圧倒的に強い。そして、それを美しさの象徴として好んで描いたのが“耽美主義”(墺)グスタフ・クリムト(1862~1918)だ。
ただ、最初からクリムトも“ファム・ファタール”を描いたわけではない。
1894年新進気鋭の画家クリムトに、国立ウィーン大学の大講堂の天井画の依頼が舞い込む。しかし、法学、医学、哲学をモチーフにした三枚の絵は、下絵の段階から大学側に注文を付けられる。“法学”は、恐らく蛸に巻き付かれて項垂れている男が、まるで社会の規範に縛られて苦しむように描かれていて、その周りには3人の女性たちが憐れむように囲んでいる。
“医学”は、やはり膝を抱えて座り込む男と、まるで踊っているかのように“科”を作る無数の女性に、あろうことか死をイメージさせる骸骨まで描き込まれている。“哲学”は、頭を抱え込んで悩んでいるような男の後ろで、男女が抱き合っている。そして3枚の絵の登場人物は、“医学”に描かれた神話の中の“健康”の女神以外、ほとんど裸だ。
これは、僕が依頼主でもクレームを入れる。文字通り“赤裸々”が過ぎる。ところが、注文とは正反対の「理性の優越を否定する」クリムトは、そのままで天井画を完成させてしまうから、文部大臣が国会で糾弾される騒ぎにまでなった。
話題の人だったクリムトではあったけれど、まだ反社会的な作品を許容されるほどの巨匠ではない。何より注文主の依頼に応えられていない。
しかし、ヘソを曲げたクリムトはギャラを返上して契約を反故にする。“耽美主義”の画家なのだから「自らの思想を貫いた」ということではなくて、お叱り覚悟で言えば、融通の利かない大学関係者の依頼に苛ついていたことや、天井画の依頼が来る2年前に、父と弟を立て続けに亡くしたクリムトの自暴自棄的な衝動だったんではないかとも思う。いや、むしろそうであって欲しい。実は、問題作ばかりが持て囃されるクリムトだけれど、背徳性もエロスも感じられないむしろ古典的な作品も結構多い。
ただ、この騒ぎでクリムトは国からの仕事を請け負うことを避けて、1897年に自らが中心となって立ち上げた“ウィーン分離派”で、その初代会長として自由な創作へと向かって行くのだから、今のクリムト人気を考えれば、何が幸いするのか判らない。
とはいえ、お堅い大学関係者は別にして、オーストリア政府は新しい芸術の波を支援していたから、“ウィーン分離派”の活動拠点だった「セセッション会館」に国有地を無償で貸与して彼らの支援を受けていたのに、大学での一件がよほど癪に障ったのか、クリムトはウィーン大学の天井画が発表されて問題となった翌年の1902年「第14回分離派展(ベートーヴェン展)」に、性懲りもなく前述の問題作『ベートーヴェン・フリーズ』(1902年/セセッション会館)を出品する。
男女の裸体が露わに描かれたこの作品には、寛容だったオーストア政府も、むしろクリムトを国の仕事から締め出した。もうこうなるとただの喧嘩なので、クリムトは意趣返しとばかりに「第18回分離派展」で文字通りの『人生は戦いなり』(1903年/愛知県立美術館)を発表する。でも、この絵の中で裸なのは“馬”だけだ。まだ“ファム・ファタール”は出てこない。
(つづく)