不本意な“印象派”という蔑称を授けられた第1回目のグループ展の歴史的な失敗は、当時勃興した資本主義を見よう見まねで立ち上げた共同出資会社を倒産させるほどのダメージを印象派に与える。それでも若き群像は諦めない。
画商のデュラン・リュエルの経済的支援を受けて、彼の画廊で1876年に再び第2回が開催される。ただ、前回参加したセザンヌが離脱して、代わりにアパレル会社の御曹司(仏)ギュスターヴ・カイユボット(1848~1894)や、二世画家のミレーの息子が加わるけれど、総勢20人にまで減ってしまう。
デュラン・リュエルは後にアメリカ市場を開拓して、買い上げた印象派の作品で商業的な成功を得るから、純粋な若き才能の良き理解者なのか、計算高い慧眼の持ち主なのか、描き方には悩むところだけれど、実際にオルセー美術館や、バーンズ・コレクションに100点以上の作品を納めて、画商として成功しているし、同じパリの画商と“印象派”の奪い合いもしているから、なんとなく後者で良い気がする。むしろプロとして、きっとその方が喜ぶはずだ。
第2回目には、モネ『ラ・ジャポネーゼ』(1876年/ボストン美術館蔵)が出品される。
2014年に「華麗なるジャポニズム展」が世田谷美術館で開催されて、恭しくこの作品がメインに飾られていたけれど、お叱り覚悟で言えば、個人的には成功を焦ったモネが、当時のパリで流行していた“ジャポネズリー(日本趣味)”に合わせて日和った作品だと思う。
モネ自身も晩年に「日本への理解が浅はかだった頃の恥ずべき作品」と言っているように、僕の知る限り本当は黒い髪のはずの妻カミーユを、わざわざ金髪にしてるところも、当時の評価も好不評が半々だったと云う。
解りやすいほどに日本的な作品だけれど、僕は個人的にどうにも好きになれないから、美術は時代に寄り添うことが必要だけれど、阿ってしまってはいけないという事例にしている。もちろん、その後のモネが“ジャポネズリー”を“ジャポニスム(日本主義)”にまで昇華させて、数々の名作を遺すことになるという前提の話だけれど。
そして、相も変わらず第2回目のグループ展も、成功には程遠い結果に終わる。その負の代表作ともいえるのがルノワール『陽光の中の裸婦』(1876年/オルセー美術館)だ。フランスで最も古い歴史を持つ日刊紙「フィガロ」には、木漏れ日を浴びた裸婦の皮膚が痣に見えたようで「腐った死体」とまで酷評された。そう云われるともう僕には“痣”にしか見えないから、自分の美意識を疑わざるを得ない。
第2回目の救いは、出品者こそ前回の2/3になったものの、バジールの遺作も含めた出品数は、前回比1.5倍になったことだろう。少数精鋭という訳ではないと思うのだけれど、現在において真正の“印象派”と呼ばれる4人の、モネ、ルノワール、ピサロ、シスレーの全員が参加している。その中に、モリゾが入っていないのが個人的には少し不満だけれど、日動画廊の副社長がそうおっしゃったので、たった僕の気持ちよりも、プロの慧眼の方が正しいに決まっている。
第2回(1876年4月11日~5月9日)
モネ
ルノワール
ピサロ
シスレー
モリゾ
ドガ
カイユボット
等20名
(つづく)