第4回印象派展が開かれる前年の1878年に、それまでなかなか経済的な成功を手に入れられずにいる画家たちの中から、背に腹は代えられないルノワール、シスレー、セザンヌが離脱してしまった後も、さらに印象派の“終わりの始まり”とも言える火種が生まれる。
ドガの保守的な“官展”への対決姿勢は先鋭化して、その勢力を拡大するべく、写実主義の画家たちを誘ったものだから、印象派の“資格”(官展に出品した画家は印象派展に参加できない)についてはドガに付いたモネが、今度は猛反対する。
(仏)アルマン・ギヨマン(1841~1927)の参加資格については、その“画法”を根拠に、ドガもモネも異を唱えていたのだから、この言い分についてはモネの方が筋がよほど通っている。勢力拡大の原理主義者になったドガの言動は、もはや制御不能のトラブル・メーカーだ。
この時に、写実主義の(仏)ジャン=フランソワ・ラファエリ(1850~1924)と共に、ドガが招待した写実主義の画家たちの中にいたのが(米)メアリー・カサット(1844~1926)だ。
彼女はピサロに師事していただけではなく、ドガに心酔していた。この時に出品した『青い肘掛椅子に座る少女』(1878年/ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵)に描かれているのは、ドガの友人の娘で、傍らにはカサットがドガにもらった犬までいるから、その親密さは創造に難くはない。
しかも、この絵は少しドガが筆を加えていると云われている上に、今では少女の屈託のない奔放さが際立つ名作だけれど、それが逆にパリ万博出品の選から漏れる理由になったという曰く付きの作品だ。
“マネとモリゾ”に加えて物語にロマンスを彩る、お互い生涯独身を貫いたドガとカサットの恋仲も気になるけれど、晩年に病を患って死を予感したメアリー・カサットが、後に自ら距離を置いたドガとの手紙を、全て焼き払う場面から想像するだけに止めておく。
そういう訳でカサットは印象派の初期メンバーではないから、ベルト・モリゾを“紅一点”と呼んだけれど、むしろモリゾよりも挑戦的な作品を創作している。『オペラ座の黒衣の女』(1879年/ボストン美術館)は、当時の男性中心の社会に対して、強烈な風刺を含んでいる。
誤解を恐れずに言えば、バレエもオペラもステージに向けられた視線は、男性が女性の値踏みをするようなところがあったから、観劇の際の女性は男性の添え物的な存在だったけれど、堂々と観劇する女性を主題に描き、しかも画面後方には、浮ついた男性がその女性に見とれているという、現代にジェンダーフリーを謳う方々には是非観て頂きたい快作だ。同じ印象派のルノワール『桟敷席』(1874年/コート・ルード・ギャラリー蔵)の女性と比べると、その衣装や扇子、さらに女性本人の視線から、その描き方の違いは明確だ。
この作品は、アメリカで初めて展示された“印象派”と云われているけれど、印象派が嫌った(逆にマネは好んで使った)“黒”の際立つ作品だから、モネにしてみればドガの依怙贔屓を差し引いたとしても、「絵の良し悪しではない」とは言いながら素直に印象派展に参加させたくなかった気持ちは理解できなくもない。
ただ、メアリー・カサットは印象派が成功していくドラマに大きな役割も果たしている。自身もアメリカの富裕層に育った彼女は、母国の知り合いたちに印象派を勧めたから、印象派はフランスではなく最初にアメリカで陽の目を見ることになる。
今でも、印象派絵画の名作がアメリカの美術館に多いのは、カサットの喧伝に因るところが大きいのだと思う。実際に「印象派」を最初に買ったアメリカ人は、カサットの強い売り込みによるものだと云われていて、しかもそれはドガの絵だ。
そんな紆余曲折も含みながら、印象派は“官展”への対抗という原理主義にも似た純粋な動機を推進力に、ドガを中心とした美術運動として続いていく。
第4回(1879年)
モネ
ピサロ
ドガ
カイユボット
ゴーギャン
メアリー・カサット
計16名
(つづく)