第6回独立派展は、名前に“印象派”が残っていないどころか、設立メンバーがピサロ、モリゾ、ドガの3人しか残っていない上に、親の財産で印象派を支えていたカイユボットが離脱してしまうから、会場も第1回よりもさらに狭い場所しか借りれなかったらしい。しかも、ドガは自他ともに認めるように印象派の画家じゃない。
パリに芽吹いた新しい芸術の運命もこれまでかという時に、救世主として現れたのが第2回の印象派展でも経済的な支援をしてくれた画商のデュラン・リュエルだ。それまで買い込んだ印象派の作品を「第7回印象派(独立派)展」に持ち込んで、なんとか印象派の灯を消さないようにと働きかけた彼のことを、若き才能たちの理解者とも呼べるかもしれないけれど、ここではやっぱりお叱り覚悟で、所有資産の価値が落ちることを心配した商売上手な画商ということにしておきたい。
そして、そのデュラン・リュエルを言葉巧みに巻き込んだのは「ドガの連れてきた画家たちを排除して、初期メンバーのルノワールやセザンヌを呼び戻したい」と画策して、ドガと仲違いしたカイユボットなんじゃないかと思う。
デュラン・リュエルは経済的な支援と引き換えに、モネとルノワールを復帰させたからだ。まさに二人の利害が一致する形で、第7回印象派(独立派)展は開催されるのだけれど、もちろんへそを曲げたドガは参加していない。
理由はどうあれ、ドガと彼の連れてきた画家たちが不参加の“独立派展”は、ようやく元の“印象派展”に戻って活気づくかと思われたけれど、それまでの惨憺たる結果を知ってか知らずか、参加した画家は結局たったの9名で、内容についても、既に肖像画家として人気を博していたルノワール『船遊びの人々の昼食』の出品などが美術評論家には好評だったものの、パリの不景気も手伝って決して成功と呼ぶには程遠いものだった。
ただ一人、デュラン・リュエルはこの印象派展によって、恐らく世界で初めて、売買だけではなく支援や企画も含めた総合的なプロデュースを行った現代的画商のスタイルを確立したと、後世に評価されている。しかも、パリで印象派が売れないと判ると、さっさと市場を求めて、既にカサットによって印象派の作品が紹介されていたアメリカに渡ってしまうから、またしても印象派たちは置き去りになった。
恐らく商売上手のデュラン・リュエルは、印象派作品の在庫をアメリカで(しかも割と高額で)売り捌いたみたいだから、今日の印象派があるのはそのお蔭かもしれない。ただ、だからと言って印象派たちが彼の力で経済的に豊かになったとは聞いていないから、僕はやっぱり純粋に若き才能の支援者だったとは思えない。
第7回印象派展(独立派グループ展)1882年
・モネ
・ルノワール
・ピサロ
・シスレー
・ベルト・モリゾ
・カイユボット
・アルマン・ギヨマン
・ゴーギャン
・ヴィクトール・ヴィニョン
そしていよいよ、印象派展12年の歴史に幕が降ろされる時も迫ってくる。印象派をぶっ壊した男ドガの再登場だ。
第7回印象派展が不調に終わって、デュラン・リュエルがさっさとアメリカでの商売に精を出すと、ピサロが「やはり画商ではなく画家たちが中心の展示会にすべきだ」と提案した。でもきっと、除け者にされたままでは腹の虫がおさまらないドガが、ピサロにそう吹き込んだんじゃないかとお叱り覚悟で僕は思うし、その方が面白い。
ピサロには、マネを印象派の父とするならば、セザンヌやゴーギャン、ゴッホたちに慕われる、温厚な後期印象派の父のイメージでいて欲しい。
そういう訳だから、第8回印象派展(独立派グループ展)には、ドガとピサロが自分たちの仲間を大勢呼び集めた。第1回目の参加者30名には及ばなかったけれど、ピサロの息子も含めた多種多彩な17名の画家たちが集まった。
もちろん、元々いた印象派的な画家たちから少なからずの反発を受けたから、今ではポスト印象派と呼ばれている(仏)ジョルジュ・スーラ(1859~1891)や(仏)ポール・シニャック(1863~1935)の作品は、別室に展示されたりもした。
ただ、せっかく戻ってきたモネ、ルノワール、シスレー、カイユボットは、それでも納得がいかずまた去っていった。
第8回印象派展 1886年
・ピサロ
・R.ピサロ(ピサロの息子)
・ドガ
・モリゾ
・カサット
・マリー・ブラックモン
・アルマン・ギョマン
・スーラ
・シニャック
・ゴーギャン
・オディロン・ルドン
等17名
(つづく)