失われたカラバッジョ『ユディトとホロフェルネス』の真贋について意見が分かれると、もちろん少しでも高く絵を売りたい画商テュルカンは「顧客の利益を守るのが私の仕事だ」と大義を叫び、都合の悪い意見には耳を塞いで肯定的な英米の意見に飛びついた。
しかし、そうはいっても、芸術大国フランスや本家イタリアでの評価が必要なことくらい、僕でもうっすらとは気付くのだから、そんなに話は上手く進まない。
30か月の間に購入を決めなかったフランスは別にしても、150億円のためにはどうしてもイタリアでの肯定的な評価が欲しいから、(伊)ミラノにあるブレラ美術館ジェームス・ブラッドバーン館長に手を回して、フィンソンの模写と今回見つかった“原画”を並べて展示するという一大イベントを敢行する。
「カラバッジョの前と後では芸術は様変わりしている」とプロモーションに躍起な館長の思いとは裏腹に、真贋がはっきりしていない作品とその模写を並べることが「ただの売名行為だ!」と主任学芸員が辞任する騒動が起こってしまう。
しかもイベントの結果はお世辞にも成功とは呼べなかったから、館長は捨て台詞のように「カラバッジョの作品だと認めた人は誰もいなかったが、どこかの美術館が購入したらその瞬間に魔法のようにカラバッジョだと認められるのだ」と嘯いた。
もうこうなると、そろそろ諦めても良さそうなものなのに、田舎町の画商はこの千載一遇のチャンスをそう簡単には捨てる訳にもいかず、肯定的な意見を求めて奔走する。
ある専門家は、同じ画材で同じ個所にキャンバスのつなぎ目があると、ブレラ美術館に並べられた2枚の絵は両方ともフィンソンの複製画だという。またあるX線解析の専門家は、下絵にユディトのベールに隠れた老女の肩のラインが描かれていることを根拠に、模写ではないと主張した。決して大げさではなく、僕の知らないところで世界中の美術関係者が真贋について大騒ぎをしていたらしい。
中には「ユディトの横にいる老女の皴から絵具を採取しようとした際に、絵具が剥がれて落ちた。これは完全に乾いた絵具の上から誰かが上描きをした可能性が高い」と主張する専門家もいたけれど、もしかしたら150億円の価値のある作品の絵具を剥がしておいて、一言の謝罪もなく自説を滔々と語る強心臓には驚いた。
ただ、この発見はとても画期的らしく、カラバッジョ作品の権威(伊)ナポリ国立カポディモンテ美術館のニコラ・スピノザ元館長は「この作品は17世紀もしくは19世紀に修復されたのかもしれない。
個人的にはカラバッジョの作品にフィンソンが加筆したと思う」と言い出したから、この前代未聞の見解に、この作品どころか今まで鑑定されてきたカラバッジョ作品にも波紋は広がった。まさか2019年に日本で開始された「カラヴァッジョ展」で突然8点がイタリアから届かなかったのが、この影響であったならばお騒がせな話だ。
上を下への大騒ぎを冷静に分析してみせたのが、ただ一人レオナルド・ダ・ヴィンチ『サルバトール・ムンディ』の高額落札を予想した、美術界最大の商業データバンクの創業者ティエリー・アーマンだ。
作品の真贋を見極めるのではなく、市場価値を見極める彼によると「500億円で買ったとしても展覧会に100万人が来場したとすれば、他の美術館にへの貸し出しも含めて10年くらいで元が取れる」らしい。そういう意味では『ユディトとオルフェウス』は真贋を問わず300億円で売れても不思議ではないと言うのだ。
ティエリー・アーマンは更に「そのうちすぐに絵の値段は1000億円を超える」と続けた。その根拠に、2000~2014年の15年間に過去2000年間より多くの美術館が創設されていて、現在も所蔵品4500点以上の美術館が年間700も開館している事情がある。「特に、古典美術の需要が多く、専門家の意見よりも市場の動向が反映されていて、カラバッジョの出現に市場は過熱している」らしい。
昔、若くしてルーブル美術館長に就いたアンリ・ロワレット氏が『モナ・リザ』の真贋論争が盛り上がる中で「いまルーブル美術館にある『モナ・リザ』を個人的には本物ではないと思っています。しかし作品の真贋よりも年間800万人の鑑賞者がこの作品の前で感動をしている、その事実こそが重要だと思うのです」と言ったことに比べると、少し身も蓋もない物言いだけど、それが美術作品を取り巻く現状なのかなとも思う。
(つづく)