首都ローマを擁するイタリアは、古代ローマの継承者として古い国のようだけれど、文化や文明は別にして今の形に統一されたのは意外に19世紀に入ってからだ。それまでは数多くの豊かな都市国家が群雄割拠していたけれど、逆にそれが理由で神聖ローマ帝国やフランク王国といった大国の餌食にもなってなかなかひとつにまとまれなかった。漏れなくベネツィアも、フィレンツェ、ミラノ、ローマと並ぶ都市国家のひとつだ。
今でこそ地中海の海の幸に恵まれた“水の都”と呼ばれるベネツィアだけれど、元々は5~6世紀にモンゴル族やゲルマン族から這う這うの体で逃れて来た人々が、干潟に杭を打って造った人工都市だ。町中に張り巡らされている迷路のような水路を行く水上バスは有名な観光資源ではあるけれど、大雨が降ったら大変だろうなと心配するのが余計なお世話なくらいに、人々の明るい気性は恐らく圧倒的に明るい陽射しが源なのかもしれない。
もちろん陽射しだけではなくて、追い詰められた先のアドリア海に浮かぶ人口都市も、13世紀になると地中海最強の海洋国家に成長してアドリア海の覇権を握るから、海上貿易によって以後1000年続く栄華を誇ることになる。もちろん、ただ気性が明るいだけで覇権は握れない。重要な輸出品でもあるベネチアン・グラスの職人たちはひとつの島に集められて、表向きは火災の予防とは言っているけれど、その技術が外部に漏れないように隠匿する狡猾さもあったりする。
そして、都市国家ベネツィアの総督は、その繁栄の証として画家たちにドゥカーレ宮殿を飾る絵画を描かせた。今ではアカデミア美術館に数多く所蔵されている作品は、フィレンツェやローマで生まれた作品に比べて圧倒的に鮮やかな色彩で表現されている。その違いの大きな理由は、やはり日々の生活の中に降り注ぐ海辺の鮮やかな陽光だけではなくて、諸外国との交易によって手に入った珍しい顔料や、ヴァチカンの支配から遠く離れた土地であることがキリスト教の抑圧から一足早く解放された自由な創作を可能にさせたのだと思うのは僕だけではないはずだ。
もちろん、ルネサンスがフィレンツェで花開いたことに異論はないけれど、その亜流としてヴェネツィア派が語られることにも少しばかりの不満があるのは、キリスト教会の過度な抑圧から解放されて人間性の再生を実現したのが“ルネサンス”ならば、ベネツィアはそもそも解放されていたと思うからだ。
フィレンツェにおけるルネサンスの最大の庇護者にして人類史上最大のパトロンとも呼ばれるメディチ家は、ヴァチカンの金庫番として巨万の富を得て都市全体を芸術の都として創造していったのだけれど、少なからず教会への忖度はあったようで、古代ギリシア・ローマへの回帰の一方で、神話と聖書の融合にも余念がなかった。特に、古代ギリシアの哲学者プラトンに傾倒したプラトン・アカデミーを中心に、(合理的なゴシックに対抗するように目に見えない)“愛”や“美”に関する知的な議論が頻繁に行われていたようだ。
自身もその会員である(伊)ボッティチェリ(1444~1510)の『ヴィーナスの誕生』(1485年頃/ウフィツィ美術館)と『ラ・プリマヴェーラ(春)』(1482年頃/ウフィツィ美術館)は、神話に登場する女神が、地上に降りて聖母マリアになったことを示唆しているから、まさにそのことを表していると言っても過言ではないと思う。
僕が勝手ながらルネサンスの三大巨匠にボッティチェリを加えたいのも、まさにルネサンスを体現している画家であるからだ。
(つづく)