アンリ・ファンタン=ラトゥール『バティニョールのアトリエ』(1870年/オルセー美術館)を観た時に“滑稽”だなんて感想こそが“滑稽”だと叱られるかもしれないけれど、恐らく親のお金で、ヨーロッパ中の美術館で古典絵画を観て廻っただけのマネが、国立美術大学エコール・デ・ボザールを卒業したルノワールに何を教えていたのか?気になって仕方がない。しかも当時何の実績もないマネの態度は頗る尊大に見える。
もちろん学歴が云々という話ではないけれど、マネは当時流行りの民間の画塾で決して真面目とは言えない態度で、恐らく親のお金で6年間も居座り続けた。学歴ということであれば、むしろそれを気にしていたのはマネ本人ではないかと勘繰りたくなるのは、後日マネがモネに向かって「ルノワールは下手くそだから絵をやめた方が良い」と陰口を叩いたのからだ。
ご存じのように現実主義で実力もあったルノワールは、いち早く印象派と袂を分かって人気画家になるのだから、マネに見る目がないのではないとしたら、権威に対するコンプレックスから来るマネの戯言だ。
マネは裕福な高級官僚の家に生まれた。もちろん堅物の父親は長男が画家になることなど望んではいなくて、自分と同じ法律の道を進ませたかったようだけれど、マネは期待に応えることはできなかった。
その後にもマネは海軍の学校を二度受験して二度落ちている。そしてこの頃には厳格な父親も、出来の悪い長男を諦めて、画家になることを許し始めているから、そう父親に思わせるために、故意に落第したと考えられないこともないけれど、父親の翻意を得るために姑息な手段を使うなんて、「印象派の父」なのに「印象派展」には参加せずに「私は権威に挑み続ける」と言ったマネには、合格した上で「絵の道に進むのだ」と宣言してもらいたかったと思うのは僕だけじゃないはずだ。しかし、そうなると勉強は苦手だったということになる。
姑息なのか?勉強が苦手なのか?もちろん、マネに訊いてみることはできないけれど、訊いたとしても本当のことは言わないと思う。尊大な自分のイメージが壊れることは、きっと彼にとって最も不本意なことだったであろう。
幼少期のマネは、実家の近所にあるルーブル美術館に、伯父さんに連れられて毎日のように通っていたようだ。セーヌ川をはさんだ対岸には、前述の国立美術大学エコール・デ・ボザールがある。
少なくとも堅物の父親を納得させた上で、画家を目指すのならば、毎日見ていたこの学校に進学するのが得策だと思うのだけれど、そうしていない。官展(サロン)での評価にこだわり続けたように、権威的な家庭に育ったマネは、権威に執着しているのだから、もしかして本当に学力や技量が足りなかったのか?とは口が裂けたら言えないけれど。
とはいえ尊大に振舞う話術も、頭の回転の速さもあったのだから、勉強が不得意というのは、決して愚鈍だということではない。とにかく他人に言われたことに従うのが嫌いだったのだと思う。だからといって、厳格な父親から早々に独立する克己心があったとのかといえば、その欠片も見当たらない。
例えばそれが経済的な支援目当てだったとしても、むしろ父親が死ぬまで気を遣っているから簡単に言えばファザコンであったのだと思う。そして、それを拗らせて権威に対してコンプレックスさえ抱いている気がする。
子供の頃のマネは、とにかく先生の言うことを聞かなかったようだ。美術の授業で風景を写生する課題の最中も、景色にには目もくれずに隣の友人の顔を描いたりしていたらしい。子供の頃ならば、僕にも思い当たる節はあるし、むしろ好奇心旺盛なのだと庇ってもらえるのかもしれないけれど、ようやく父親の許しを受けて入った私立の美術学校でも、裸婦画を描く授業で服を着たままのモデルを描いて、先生に叱られている。「僕は“今”を描きたいんです」と反抗して匙を投げられる。
マネが生涯、裸婦像を描かなかったのならば腑に落ちもするけれど、『オランピア』(1863年/オルセー美術館)にも『草上の昼食』(1863年/オルセー美術館)にも裸婦が登場する。ちなみに当時大人気だったこの私塾の先生は、エコール・デ・ボザールを優秀な成績で卒業したトマ・クチュールだった。
恐らく授業料も安くはなかっただろうけれど、マネは真面目に通うでもなく反抗しながら6年間も在籍し続けた。エコール・デ・ボザールに行けないなら、せめて人気の私塾に在籍しておきたいなんて考えていたならば、親の財力に比べて、少し心が貧しい。
権威に対してコンプレックスがありながら、反抗的な態度をとるこの性分は、まるで反抗期を拗らせたように、オトナになってからも直らないから、実は画家マネはいつになっても芽が出ない。
(つづく)