1865年(サロン出品)
イタリア・ルネサンス期の名画をオマージュしながら酷評された『オランピア』のすぐ横には、保守的な題材の序列(歴史画・宗教画→肖像画→風俗画→風景画→静物画)では下から2番目の“風景画”にも拘らず好評を得ていた作品が飾られていた。ただのアルファベット順を、父と子の運命の出会いと呼ぶのは大袈裟だけれど、「印象派の父」マネと「印象派」モネが初めて会うことになる。
モネ 1865年(サロン出品)
嘘みたいな話だけれど、この時にマネは自分の作品の隣に“モネ”のサインを見付けると「自分の名前を真似て売れようとしている偽物だ!」と怒り出したと云われている。売れていないどころか札付きの問題児の名前を真似ても何ひとつ得などしないとは思うのだけれど、自尊心の化け物マネはかなりの剣幕だったようで、気圧されたマネは以後自分の作品にするサインを、マネと間違われないように「クロード・モネ」とフルネームで書くことを約束した。
滑稽なほど尊大なマネと、気の毒な8歳後輩のモネのようだけれど、実はモネは強かで、マネの自尊心を利用してこの後に何度もお金を無心する。世間にまったく評価されないマネは、モネに頼られることで辛うじて自尊心を保つという、共依存関係が出来上がっているから、もうこれは完全な“お互い様”だ。“光と水の画家”モネが、ますますマネの闇を深くしていくのは皮肉なことだけれど、マネの死後に彼の画業にようやく光が当たったのは、モネの尽力によるところが大きいから、恩返しを忘れない常識人ではあった。
一方のマネは、画風と同様に気持ちも不安定で、モネに威張り散らしたかと思ったら、『オランピア』への酷評に耐えられずに、パリからスペインへ逃げ出してしまう。そうなると、やはりマネは本気で『オランピア』が高く評価されて、自分は時代の寵児として祭り上げられるはずだと思っていたということになる。「印象派の父」としては経済力の他に頼りにはならないけれど、マネの本当の魅力はこの滑稽さにこそあるのだと思う。
とはいえ、スペインへ出かけた理由を、マネの取り巻きバティニョール派で4つ年下の後輩(仏)アンリ・ファンタン=ラトゥール(1836~1904)には、手紙で「ベラスケスを観るだけでも旅に出る意味がある。おそらくこれまでに描かれた作品の中で最も驚くべき絵画作品といえるのは、フェリーペ四世の時代のある有名な俳優の肖像だ。背景が消えている。黒一色の服を着て生き生きとしたこの男を取り囲んでいるのは空気なのだ」と尊大に書いてるくせに、10歳年上の詩人ボードレールには「あなたがここにいてくださったら、と思います。僕の上には、罵詈雑言が雨あられと降っています」と泣きを入れているのだから、闇は闇でどうしようもなく深い。
1866年(サロン出品)
ラトゥールに宛てた方の手紙でマネが尊大に語っていたベラスケスの作品は恐らく『パブロ・デ・バリャトリード』(1632年)のことで、今度は破廉恥な要素を加えずに、自分の隠し子をモデルにした『笛を吹く少年』を出品したけれど、残念ながら落選する。
つい1年前に自分の名前を真似するなと叱責したモネは、出品した2つの作品『緑衣の女』『シャイイの道』が両方とも入選しているのだから、マネの滑稽さもここまでくると少し恥ずかしい。
ちなみに、モネはマネ『草上の昼食』に感化されて、同じタイトルで4.6m×6mの大作を出品しようと創作にかかっていたけれど、マネを見放したクールベに批判されて止めたらしい。
(つづく)