ただ自分こそがフランスを代表する画家だというマネの自尊心は、万博会場の近くに自費でパビリオンを作って個展を開催するという暴挙に出て、当たり前のように失敗する。万博を否定するのではなくて、憧れの方が強かったのは、マネが『1867年のパリ万国博覧会の光景』を描いたことを考えれば想像に難くない。
実は、12年前のパリ万博で、マネの宗教画『死せるキリストと天使たち』に失望した写実主義の巨匠クールベも、自信を持って描いた大作『オルナンの埋葬』『画家のアトリエ』が落選したことに腹を立てて、マネと同じように万博会場の近くで“世界初の個展”を開いている。
決定的にマネと違うのは、この大作以外のクールベの作品は万博の会場に展示されていること、既に売れっ子だったクールベは費用をパトロンに出してもらったこと、そして個展のパンフレットに「生きた芸術を創りたい」と自らの筆で書いた文章は後に“レアリスム宣言”として呼ばれた。
個展に際してのマネの主張は、美術論ではなく「決して反抗しているわけではないのに何故そう取られてしまうのか」と体制側に忖度した言い訳がましい泣き言に聞こえてしまうのは僕だけではないと思う。以後もマネは自分の美術論を語ってはいない。それでは、アンリ・ファンタン=ラトゥール『バティニョールのアトリエ』(1870年)の中のマネはいったい何を語っているのか気になるけれど、150年前なので誰にも訊けない。
代わりに、画中にも登場している小説家のゾラが、「マネ論」を発表して“個展”でも売られていたようだけれど、そこには「絵画で表現すべきなのは“思想”ではなくて“美しさ”である」と書かれていて、現代美術の先駆けになっているけれど、決してマネが語ったのではなくゾラの感想だ。実際に現代美術の巨匠ピカソは「セザンヌこそが唯一の師だ」と言ってマネのことには触れていない。
失敗に終わった“個展”だけれど、単純にクールベの真似事をしたというだけではなくて、このマネの衝動には理由があるのだと思っている。それは(仏)アレクサンドル・カバネル(1823~1889)へのコンプレックスにも似た対抗心だ。マネ『草上の昼食』が落選どころか酷評された1863年の官展(サロン)で、カバネル『ヴィーナスの誕生』(1863年/オルセー美術館)は入選するどころか、当時の英雄ナポレオン3世の目に留まって買い上げられた。
それからのカバネルの表舞台での活躍は目覚ましく、1865年(マネは『オランピア』を出品して酷評される)、1867年(パリ万博と共催)、1878年(マネは不参加)の官展(サロン)で“最高栄誉賞”を受けている。権威に拘るマネの前にいつも立ちはだかったのがカバネルだ。もちろんカバネルはマネのことなど歯牙にもかけていなかったから、マネの勝手な逆恨みだけれど、万博に『ヴィーナス誕生』が飾られることは忸怩たる思いがあったとしても不思議ではない。
ただ、自分のお金でストレスを勝手に発散したとなれば、それはもうご自由にやって構わないとは思うのだけれど、マネには取り巻きたちがいて、決してマネ本人の思惑とは別の解釈で、万博に対抗して開催された“個展”によって、官展(サロン)に頼らない自由な発表の場を創造したと盛り上がってしまう。
このことが若い画家たちに勇気を与えて後の印象派展に繋がることになるのだから、確かにマネは「印象派の父」ではあると思うけれど、きっとなりたくてなった訳でもないと思う。実際にマネは印象派展の開催には反対していたし、それはきっと「同じ苦労はするな」という親心ではなくて、どうせ経費を強請られると心配してのことだと考えるのは少し意地悪かもしれないけれど。
(つづく)