コラム, 美術の皮膚

【コラム】美術の皮膚(185)マネの黒とマネの闇~クールベとマネ~

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1859年27歳の時からサロン(官展)での評価に拘って18年目の挑戦も、残念ながら入選落選半々の結果だった。『草上の昼食』や『オランピア』のような批評家が眉を顰める問題作は封印しているはずなのに、手が届くのは入選までで入賞には至っていない。それどころか相変わらず入選しては人目に晒されて酷評を受けるという残念なパターンは変わっていない。

1877年(サロン出品)

Edouard Manet Faure as Hamlet
入選:『ハムレットを演じるフォール』1877年/フォルクヴァンク美術館/image via wikipedia
Edouard Manet 037
落選『ナナ』1877年/ハンブルク美術館 /image via wikipedia

マネの大事な顧客でもあり「ハムレット」で一躍有名になった歌手のジャン・バティスト・フォールは、格好のモデルだったにも拘らず、入選したものの「滑稽だ」「狂ったハムレットを描いた」と散々な酷評を受ける。もう1枚の『ナナ』は、盟友エミール・ゾラの小説に登場する娼婦がモデルなのだから、眉をひそめた審査員たちは人目にさえつかないように落選させた。

実は、自分の作品を売るための、今でいえばプロモーションとして、スキャンダラスな作品と古典的な作品の両方を発表して、前者で話題をさらって実際に買ってもらうのは後者というやり口は、問題児としてマネの先輩にあたるクールベの常套手段で、下着でセーヌ河岸に寝転ぶ若い女性の絵と、風景画という突飛な組み合わせを並べて展示していた。

マネとクールベには多くの共通点が見られる、と言っては語弊があるほど、マネが一回り年上のクールベに追随している。裕福な家に育ち父親の意に反して画家になったことは別にしても、保守的画壇に挑戦するスキャンダラスな作品の発表、自身の作品が選ばれなかったパリ万博会場近くでの個展開催もそうだ。

マネは恐らくクールベに憧れて、クールベの真似をしていたに違いない。とはいえ、時代に翻弄されて晩年を汚したものの、セザンヌと並んで近代絵画の父であると言っても過言ではないクールベに比べては、失礼なほどマネの方は一向に芽が出ない。

落選した『ナナ』を知り合いの高級アパレルショップに飾って、少しばかり話題にはなるけれど、マネの自尊心を満たすにはまだまだ足りない。しかし、いつまでも大物を気取って鷹揚に振舞っている訳にもいかない。

友人でもあるイタリア人画家のジュゼッペ・デ・ニッティスがフランスの勲章を授与されると、マネは気色ばんでドガ

「僕が勲章をもらっていない理由は僕のせいではありません。もちろんできればもらいたいし、そのために必要なことは何でもするつもりだ」

と本音を漏らしている。僕だって勲章が欲しくないわけじゃないんだぞと駄々をこねるようなマネの言い草を「印象派の子供たち」が聞いたら、なんとも切ない気持ちになったかもしれない。

しかし、保守的だけれど権威の嫌いなドガはにべもなく「あなたが(勲章を欲しがるような)たいそうなブルジョアなのはずっと知っていましたよ」と答えたようだ。自分の実力を棚に上げて権威に拘るのさえとても格好が悪いのに、旧友たちの成功を素直に喜べずに泣き言ともつかない文句を言うマネを狭量だと非難しても罰は当たらないと思う。

もうひとつマネが焦らなくてはならなかったのは、自身の体調だ。どうも『ナナ』が落選した頃から調子が悪くなって、大作に取り掛かるものの断念せざるを得なくなった。翌年のサロンへの出品も諦めて、静養をしながら創作を続けることになった。

どういう訳か、本調子ではないマネの作品は執念の入選を繰り返す。もはやマネはサロンの問題児ではなくなっていたようだ。時代が追い付いたと言えないこともないけれど、権威に拘ったマネが日和ったと言えないこともない。

つづく

高柳茂樹
一般社団法人日本美術アカデミー
プランニングディレクター
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