人生の絶頂期で亡くなったマネ。亡くなる前に悲願を達成できて良かったと取るか?これからという時に残念と取るか?19世紀生れの画家80人の平均寿命を見てみると(美術の皮膚調べ)66.15歳だからやはり少しこの時代にしては早すぎた死ではあるものの、19世紀フランスで途中まで若き画家たちの先頭を走っていた(そしてマネも憧れていたはずの)クールベが同じ51歳の時に国を追われて晩節を汚したまま失意のうちに58歳で亡くなったことを考えれば、不謹慎だけれど没後に「印象派の父」だと持ち上げてもらえているのだから、承認欲求が強めのマネにとっては良かったのかもしれない。
本当ならば「印象派の(産みの)親」は、似顔絵を描いて燻っていたモネに風景画を描くことを勧めたブーダンのはずだ。ブーダンから紹介されて、時間の移り行くさまを海辺で一緒に描き続け、後の『積みわら』や『睡蓮』の連作に多大な影響を与えたクールベは「印象派の(育ての)親」かもしれない。
クールベに至ってはモネが父親に反対されてまでした結婚の立会人まで頼まれているのだから、本来であればモネが感謝すべきはそのどちらかであろうけれど、国賊クールベの失脚からの繰り上げでマネが「父」になったということなのかもしれない。まさか子育てに関しては何もしない、というかあまり役に立たない「父」がマネで、ブーダンとクールベは「母」だという言下の含みがあるとも思えないし、思いたくない。
強かなモネが、一度は新時代の画家の頂点に立ったものの結果として国賊扱いになったクールベへの恩義を、自らのイメージが悪くならないように(ブーダンごと)闇に葬って、当時あまり日の当たらない、良くも悪くも目立たない「そこそこ」のマネを殊更に持ち上げたというのは言い過ぎだけれど、少なくとも威風堂々のマネだからではなくて、あまりにも滑稽で、あまりにも人間臭くて、あまりにも間が悪いマネだからこそきっとモネには「自分が持ち上げなければ結局大した画家ではないまま忘れ去られてしまう!」という少なからずの友情のようなものもあったのかもしれない。
それともそのどちらでもなくて、当時の新聞によって「マネの率いる若い画家たち」と印象派が巻き込まれしまったから、むしろ子供たちの方が自分たちのためにマネを大物風に飾り立てたのかもしれない。誰でも、自分の父親には立派であって欲しいはずだ。
とはいえマネは立派な「印象派の父」などではない。マネの最期の言葉として良く知られているのは「あの男は健康なのにっ…」だけれども、最後まで他人(あの男)と自分を比べて恨み言を吐いて毒づくのだから、僕が勝手に想像しなくても恐らくマネの人生が幸福で終わらなかったならば、それは本人の心持の問題だ。他人と自分を比較してしまった時に不幸は始まる。
ただ、この男は誰か?僕が勝手に『フォリー・ベルジェールのバー』(1882年/コートルード・ギャラリー』の男をナポレオン3世だと決めつけたのと違って、通説がある。アレクサンドル・カバネルだ。
マネよりも9歳年上のカバネルは、保守的画壇に酷評され続けたマネとは対照的に、1865年をはじめとして3度も美術アカデミーから最高栄誉賞を授与されている。
1865年といえばマネが『オランピア』を官展(サロン)に出品して酷評された年だ。ナポレオン3世に寵愛され、数々の賞に輝き、エコール・デ・ボザールの教授にまでなるカバネルは、権威に対して執拗に拘ったマネにしてみれば、猛烈な対抗意識を抱くのに十分なくらい成功していた。
(つづく)