コラム, 美術の皮膚

【コラム】美術の皮膚(191)マネの黒とマネの闇~ブーダンとクールベ~

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最期に「あの男は健康なのに...」と、当時の画壇で絶大な評価を受けていたアレクサンドル・カバネルに向かって恨み節を唱えて逝ったマネは、自らの不遇な人生を自らの手で決定づけてしまった。

ただ、マネの性格を「権威に対するコンプレックス」、「拗らせた反抗期」、「尊大に振舞う長男気質」などと勝手に思っている僕にしてみれば、それほど驚くことでもないけれど、マネをただの「印象派の父」だと思っていた方々は少しばかり幻滅したかもしれない。でも、だからこそ、マネは面白い。そして、彼の周りに集った仲間たちもそのことを知った上で、マネを好きだったんだと思う。

そのままマネを「印象派の父」として考えるならば、実は本当の「父親」はクールベであり、ブーダンであるのだから、間違いとまではいわないけれど間違いなく虚像ではあるので、偽物ということになってしまうから、むしろ滑稽で人間臭くて後輩たちに愛された画家だと考えた方が、マネの作品の迷走ぶりに違和感を感じた理由として個人的には腑に落ちる。もっとも権威に拘ったマネにしてみれば、一世を風靡した「印象派」の父のままにしておいてくれと文句を言いそうだけれども。

Boudin Beach of Trouville
ブーダン『トルヴィル=シュル=メールの浜』/ image via wikipedia
オルナンの埋葬

生前は尊大なマネのご機嫌を窺っていた友人たちも、マネが亡くなると彼を偲んで「彼には苦悩の中にも男らしさや無邪気さがあった。酒席では軽妙なおしゃべりで気取って振舞っていたけれど、絵を描く時はまるで初めて絵を描く画家のようにキャンバスに激情を投げつけていた」と明かしているけれど、そこにはやはり人間らしいマネの魅力が感じられる。しかも、キャンバスに投げつけられる激情の理由は自分をなかなか認めてくれない権威への怒りで、その先には権威の象徴としてのカバネルがいたはずだ。

1863 Alexandre Cabanel The Birth of Venus
カバネル『ヴィーナス誕生』/ image via wikipedia

ただ、世の中が認めたというには程遠いものの、サロン(官展)での入賞や、幼馴染の大臣の忖度とはいえ勲章はもらったのだから、権威に拘るマネとしては少なからず満足のいく生涯であったのだろうと思いたいけれど、やはり本人の最期の言葉が「恨み節」だから彼の人生が満足のいくものなはずはない。その後に成功したモネがいくら持ち上げたとしてもだ。

モネが、似顔絵画家だった自分に風景画を描くように勧めた最初の師、なんなら生みの親ブーダンや、ブーダンに紹介されてキャンバスを並べて「時間の経過」を共に描き写した育ての親クールベを差し置いて、殊更に時々お金を無心していたマネを持ち上げる理由については、少し意地悪な目線で見ると、自分たちの社会的な評価のために、残念ながらパリ・コミューンに組みして国賊になったクールベの陰を、自分の人生から消すためのカムフラージュだったのではないかと思えないこともない。クールベには親の反対を押し切った結婚の立会人を頼んでもいる。平和な画風とは裏腹にモネはなかなか狡猾な世渡り上手かもしれない。

いくら巨匠モネだとしても個人的な都合や気持ちだけで、マネの評価が高まる訳もなく、マネの死の翌年にはマネの弟夫妻(妻のベルト・モリゾはマネの弟子で元恋人)の頑張りで、パリの高等美術学校エコール・デ・ボザールで回顧展が開催されたけれど、さっぱり売れないから、モリゾがボヤいていたという記録も遺っている。当時は印象派がアメリカで人気が出だした頃ではあるけれど、それに便乗できないのは恐らくマネの画風が決して印象派ではないからだと思う。

さらに6年後1889年の第4回パリ万博が開催される。フランス革命100周年の記念でもあるから周辺の立憲君主国に不人気で、そのための目玉としてエッフェル塔が建てられた万博だ。そこにフランスの懐の大きさを見せつけるためか、発表当時には罵声を浴びた『オランピア』が展示されたけれど、当時ヨーロッパのものを何でも有難がるアメリカ人くらいしか買い手がつかなかった。

つづく

高柳茂樹
一般社団法人日本美術アカデミー
プランニングディレクター
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