美術だけではなく日本の“心”に憧れて深く理解をしようとした“ジャポニスムの画家”として、背景を6枚の浮世絵にしてパリの画材屋さん『タンギー爺さん』(1887年/ロダン美術館蔵)を描いたゴッホや、着物姿の愛妻カミーユ『ラ・ジャポネーズ』(1876年/ボストン美術館蔵)を描いたモネの二人は、共に数百枚の浮世絵を持っていただけでなく、生き方までも「日本的」であることを追求した。
パリ18区にあるモンマルトルは、パリで最も高い丘だけれど、自転車で30分もあれば一周できる小さな丘だ。かつては丘の陰に隠れる場所に住む人だけをパリっ子と呼んだ。
ルノワール、ゴッホ、ピカソが通った酒場「ラパン・アジル」や、40年の歳月をかけて創られたモンマルトルのシンボル「サクレ・クール寺院」と共に、今でもゴッホが2年間住んだ青い扉のアパートが遺っている。
1853年にオランダ生まれたゴッホは、32歳の時に新しい絵画を追求して印象派の画家たちが活躍するパリに出ると、画商だった弟テオの家に居候する。テオの伝手で東洋美術専門店の倉庫に入っては、来る日も来る日も山積みされた浮世絵を眺めて過ごし、絵がなかなか売れず貧しいながらも兄弟で400枚以上の浮世絵を集めたと云われている。
パリの画材屋さんを描いた『タンギー爺さん』(1887年/ロダン美術館蔵)の背景に配されている、東海道を彩る“春の桜”、入谷の“夏の朝顔”、“秋の夕日”に照らされる富士山さん(歌川広重「富士三十六景 さがみ川」1859年刊行)、吉原の“冬景色”といった日本の四季の風景や“花魁”が描かれている浮世絵は、自身のコレクションであったらしい。
中でも西洋美術の構図ではあり得ないような大きな木が背景を遮る、歌川広重『名所江戸百景 亀戸梅屋敷』(1857年)に衝撃を受けて、油彩で模写したのが『日本趣味(梅の花)』(1887年/ゴッホ美術館)だ。
原画の上に半透明の方眼紙を置いてかなり正確に模写しようとしたはずなのに、背景や人物は原画よりも派手になっているし、それどころか他の浮世絵で見た漢字まで加えてしまっているのは独創性にこだわるゴッホらしい。
ゴッホは34歳になるとパリを離れ南仏アルルへ移るのだけれど、“影”の描かれない浮世絵を観て、日本は日差しが真上から降り注ぐ(から影のない)国なのだと思い込んで、陽の光の強いアルルを選んだらしい。実際にゴッホは弟に宛てた手紙で「僕らは日本の絵画を愛しその影響を受けている。このことは全ての印象派の画家について言える。それならどうして日本へ、つまり日本に相当する南フランスへ行かずにいられようか」と書いている。勘違いだけれど思いは本物だ。
アルルに移ってからもゴッホは、広重をはじめとする浮世絵師が描いた花々を自分の作品の中でよく描いた。アルル滞在中のゴッホの庇護者『ジョゼフ・ルーランの肖像』(1889年/クレラー=ミューラー美術館蔵)の背景は花で彩られている。自分に優しくしてくれた人を描く時に、背景に花を背負わせて感謝の意を伝えようとするゴッホの純真さは少し可愛らしい。
花の中でも、ゴッホの代名詞にもなっている、ヨーロッパで神やキリストに例えられる太陽に常に向かっている“ひまわり”は、「信仰心」や「愛」の象徴だったから、伝道師を目指したゴッホにとって最適な主題だったに違いない。
それを、南仏の明るい光の中で鮮やかな色彩で描いた『ひまわり』(1889年/ゴッホ美術館 蔵)には“影”がないし、背景が一つの色の面として描かれていてとても“日本的”だから、僕たちはこの絵に魅かれるのかもしれない。
ゴッホが浮世絵から受けた影響は、主題や表現方法だけではない。浮世絵が絵師、彫師、摺師の共同作業だと知り、さらに日本の画家たちが自分たちの作品を交換し合っていると聞くと、日本では画家同士が認め合い助け合っているのだと思い込んで、ドガやモネ、ルノワールといった画家たちを誘って画家たちが助け合いながら創作ができる共同組合を作りたいと弟テオに提案した。そして、バルビゾン村のような“場所”を作ろうと、今では「黄色い家」と呼ばれるアトリエ兼住居を借りている。
ゴッホは花瓶に挿された同じ構図の“ひまわり”を7枚描いていて(現存するのは6枚)、うち4枚は1888年8月に描かれている。無邪気なゴッホのことだから「黄色い家」にやって来る仲間たちをもてなすのに相応しい“ひまわり”を描いたんじゃないのかなと思う。
実際にテオが何人の画家に声をかけたのかは分からないけれど、10月になると印象派の写実に飽き足らず、日本をはじめとした異文化に関心を持っていた(仏)ゴーガンが(1848~1903)アルルにやって来る。
ゴッホは、日本の画家たちに倣って友情の証として互いの自画像を描いて交換しようと提案したから、ゴーガンは『自画像(レ・ミゼラブル)』(1888年/ゴッホ美術館蔵)を描いた。共同生活はわずか9週間で終わるし、副題が“悲惨な人々”だから、友情の圧し付けに嫌々描いたのかもしれないと思ったりもするけれど、そんなことはないみたいだ。
むしろ『ひまわりを描くファン・ゴッホ』ゴーガン(1888年/ゴッホ美術館蔵)の中に神経質そうに描かれた自分を見て、怒り出したのはゴッホの方だ。
この絵がきっかけになって、ゴッホは自ら耳を切り落とし、ゴーガンはアルルを去ることになる。その後精神を病んでしまい1890年7月に、ゴッホの“日本を目指した”旅もおわってしまうのだけれど・・・
(つづく)