19世紀中頃のフランスは、産業革命によって経済が飛躍的に発展した。でも、大量生産されるプロダクトの生産が機械化されてしまうから、陶器の絵付け職人だったルノワールは、18歳の時に失業してしまう。でも、むしろそれが転機になった。失業の憂き目にあったルノワールは、心機一転して画家を目指した。
ルーブル美術館に通って古典の巨匠たちの傑作を模写する中で、特にルノワールはロココ美術の巨匠(仏)フランソワ・ブーシェ(1703~1770)の『水浴のディアーナ』(1742年/ルーブル美術館 蔵)に魅せられたらしい。“師匠”によるとルノワールは、優美な曲線で描かれた官能美に「ブーシェは女性の肉体を一番よく理解していた」と感嘆して、自らの模写を生涯手放さなかったと云われている。
「女性を上手に描く画家は、女性が好きなんだよ。誰だって好きなものの方が上手に描けるだろ?」と笑いながら“師匠”は言うけれど、僕はもうほとんど絵を描かないから半分くらいしか理解できない。
画塾に通い始めたルノワールは、(仏)クロード・モネ(1840~1926)、(英)アルフレッド・シスレー(1839~1899)、(仏)カミーユ・ピサロ(1830~1903)、(仏)フレデリック・バジール(1841~1870)と運命的な出会いをする。
経済が発展して近代化が進む一方で、依然としてフランスの美術界は、宗教画や歴史画、神話画といった古典絵画が中心だったから、それに反発して、キャンバスを屋外に持ち出すことによって新しい絵画表現に挑戦しようとした彼らは、印象派の前身となる「バティニョール派」と呼ばれるようになる。
「ルノワールは明るく社交的な性格だったから、誰とでもすぐ仲良くなったけれど、特にモネとは意気投合して、よく行動を共にしてたんだよ」って、“師匠”はまるで同時代を生きてたみたいにおっしゃるけれど、まさか120歳ってことはないですよね?なんてからかうと、きっと怒るからやめた。
実際に“師匠”が言うように、若かりしモネとルノワールは、共にパリ近郊のセーヌ河畔にあった人気の行楽地「ラ・グルヌイエール」で、キャンバスを並べて同じ構図で作品を描いている。
この作品を見比べると、仲の良い二人の作品の明確な違いは、僕にでも解る。ドレスに映る光を丁寧に描き、楽しそうな“人々”を描写したルノワールに対して、モネは光が反射する“水面”の描写にこだわっている。
その話を聞いて僕は、(光を“色彩”で表現しようとした)印象派の王道を行くのはモネの方なんだろうと、なんとなく思ったけれど、もう“当てずっぽう”が当たるとは限らないので黙っておいた。
また、二人が連れ立ってルーブル美術館を訪れた時には、16世紀ヴェネツィア派を代表する(伊)パオロ・ヴェロネーゼ(1528~1588)が「新約聖書に記されている、キリストが婚礼の儀式で起こした奇跡」を描いた、ルーブル美術館最大の絵画(縦6m横10m)『カナの婚宴』(1562-1563年/ルーブル美術館 蔵)の前で、その迫力に圧倒されたルノワールが、大作を描くことに意欲を見せたのとは対照的に、モネは関心なさげに窓の外の景色を眺めていたというから、印象派を代表することになる両者の志向する“美”は、やっぱり最初から別々のものだったのかもしれない。
(つづく)