ルノワールは、その作品の明るさや温かさに見られるように、生涯を通じて「絵は楽しく美しく愛らしいものでなくてはならない」ことを創作のテーマとしていたから、“幸福の画家”と呼ばれている。
ただ、1870年にルノワールも徴兵された「普仏戦争」が勃発して、「バティニョール派」の仲間だった(仏)フレデリック・バジール(1841~1870)が戦死した当時には、あまり知られていない暗い色調の風景画が少しだけあるから、その次に続く「こんなに人生にはイヤなことが多いのだから、これ以上イヤなものは作りたくない」の言葉の方が、僕は気になってしまう。
彼が“幸福の画家”であることにもちろん異論はないけれど、“幸福な画家”だったかどうかには、少し疑問だ。
“幸福の画家”でいようとするには、相当の“苦悩”あって、それを知れば、もっと彼の絵が好きになれるんじゃないかと思うから、お酒を飲む手を止めて、余計なことは言わないで“師匠”の話に聞き入った。
印象派の画家たちが集ったパリ北東に位置するモンマルトルは、今では「画家の聖地」と呼ばれていて、当時のルノワールのアトリエも「モンマルトル美術館」になっている。その中庭で描いた『陽光の中の裸婦』(1876年/オルセー美術館 蔵)は、新しい光の表現に挑戦したルノワールの意欲作で、裸婦の肌に反射する木漏れ日を表現している。
でも、評論家からは「腐った死体のようだ」と酷評されてしまう。そこまで酷く言わなくてもと思うけれど、正直に言えば僕にも“木漏れ日”が“痣”に見える。
しかし、ルノワールは諦めずに“木漏れ日”を別の方法で表現する。モンマルトルの丘にあったダンスホールを描いた『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』(1876年/オルセー美術館 蔵)だ。
印象派を代表する傑作は、まさに「絵は楽しく美しく愛らしいものでなくてはならない」というテーマを、画面いっぱいに表現している。しかし、またしても作品は評価されず、ルノワールは貧しい日々を過ごすことになる。
そんな彼を救ったのは、後にルノワールの有力なパトロンになる、裕福な出版業者の家族を描いた『シャルパンティエ夫人と子供たち』(1878年/メトロポリタン美術館 蔵)だ。
温かみのある色彩で人物だけではなく、当時流行した高級ブランドのドレスや、室内の装飾品も丁寧に描き込んだ肖像画は評判になって、次々と依頼が殺到した。
肖像画家として生活が安定してきた一方で、印象派として目指してきたものとの乖離も生じてしまう。印象派では、華やかな色彩を表現しようと“輪郭”をぼかして、すべての形を光の中に溶け込ませようとしたけれど、人物を描こうとすると、それでは人物が風景に埋没してしまって“生き生き”と描けないという葛藤が生まれた。
その葛藤が、そのまま画面に表れている作品が『雨傘の女たち』(1880-1886年頃/ロンドン・ナショナル・ギャラリー 蔵)だ。
画面右の親子は輪郭をぼかして描かれているけれど、画面左の女性の輪郭ははっきり描かれているという、全体として“ちぐはぐ”になってしまっている。
ルノワール自身も「私は袋小路に入り込み引き裂かれた状態だった。印象主義の果てまで行ってもはや色で描くことも線で描くこともできなくなった」と、この時を振り返っている。
その苦悩の果てに、ついにルノワールは、親友のモネに「僕はやっぱり人物画家だ」と告げる。そして、印象派から離れて人物を描く覚悟を決めたルノワールは、1881年40歳の時に、それまで反発していた古典美術を学ぶために、ルネサンス発祥の地イタリアへ旅をする。
(つづく)