日本人が“印象派”が好きな理由を、“印象派物語”の青春群像に求めたのだけれど、その登場人物として、前回ご紹介した“印象派の父”マネと、主役のモネの次にご紹介するのは準主役の(仏)オーギュスト・ルノワール(1841~1919)だ。
モネと共に印象派を代表する「幸福の画家」で、モネとは互いに良き理解者だけれど、古典を嫌うモネに対してラファエロを絶賛したり、光を追いかけて風景画を描くモネに対して、人物画(特に若い女性)を好んで描いたから、必ずしも同じ方向は向いていない。
例えば、モネとルノワールがキャンバスを並べて同じテーマを描いた『ラ・グルヌイエール』(1869年)は同じ構図なのに、モネが人物よりも水面の揺らぎを克明に描写しているのに対して、ルノワールは楽しそうな人々を中心に描いているのが明確だ。
しかも、ルノワールは「女性に胸と尻がなければ私は絵を描かないだろう」とまで言っていたらしいから、ストイックに光を追いかけるモネとは対照的に、現実的に行動する画家だった。アカデミーに対抗した「印象派展」では収入が見込めないと、最初に離脱してアカデミー主催の“官展”に出品して裏切ったのもルノワールだ。
ただ、ルノワールの屈託のない明るさには影がある。画家仲間で親友でもあった(仏)ジャン・フレデリック・バジール(1841~1870)を普仏選戦争で亡くしてしまうのだ。悲しみの底にいたルノワールは「人生は不快なものだ。だからこそ絵画は楽しくなければならない」と、むしろ必死に明るく振る舞っていた気がしてならない。
20代で夭折するバジールは、遺した作品こそ少ないけれど、印象派の誕生には多大な貢献をしている。裕福な家庭に育った彼は、仲間たちの絵を買ったり、自分のアトリエ(フレデリック・バジール『バジールのアトリエ』1870年/オルセー美術館蔵)を提供したりして支援した。
自身は、画家の道に進むことを家族に望まれず、医者の道に進むことを条件に絵を描くことを許されていて、その葛藤の中で美術を、そして印象派の仲間たちを愛した。
家族への手紙には、絵を描くことの楽しさと、医学を学ぶことの辛さが滲み出ていて、案の定医学部の試験に不合格だったバジールは、ようやく家族に画家の道に進むことを許可される。
その喜びと感謝を表現するようなバジールの代表作『家族の集い』(1867年/オルセー美術館蔵)は、明るい光の中で、上品な家族たちの幸せそうな時間が描かれている、とても印象的な作品だ。
しかし、元々がバジールの構想であったと云われている1874年の第1回印象派展を見ずに、彼は戦死してしまう。印象派の画家たちの悲しみは想像に難くないけれど、特に親友だったルノワールの悲しみは深かったはずだ。僕でさえ『家族の集い』を観ると涙が溢れる。“印象派物語”が僕が制作するドラマだったら、度々バジールの遺影を映り込ませる。
ルノワールだけでなく印象派の画家たちは、この悲しみを乗り越えて自分たちだけのグループ展を開催するから、この物語は出だしからドラマチックだ。
ルノワールは生涯をかけて「楽しく明るい絵画」を描き、家族への愛が溢れた作品を遺す。晩年はリウマチに苦しみながら、絵筆を手に括り付けてまで、『浴女たち』(1918年/バーンズ・コレクション蔵)のような、自然の中の豊満な女性を描いた。
可愛い少女の絵に比べてあまり人気はないけれど、僕は「生命」を描こうとした晩年の作品こそが真骨頂なのだと思う。実際にルノワールは今際の際に「ようやく何か解りかけてきた気がする。私はまだ進歩している」という言葉を遺してる。
そんなルノワールに、20世紀絵画の巨匠たちも惜しみない賛辞を贈る。アンリ・マティスは「ルノワールは、潤いに欠けた抽象化から私たちを救う」と評し、ピカソはルノワールを“法王”と呼んだと云われている。
(つづく)