第6回に続いて創立メンバーが3名だけの第8回印象派展(独立派グループ展)は、前にも増して印象派的ではなかったけれど、そこには次世代を担う画家たちが綺羅星のように集まった。
特に、象徴主義を彷彿とさせる(仏)オディロン・ルドン(1840~1916)の作品は異彩を放って衝撃を呼んだ。夭折の点描画家(仏)スーラ(1859~1891)の代表作『グランド・ジャッド島の日曜日の午後』(1886年/シカゴ美術館)もこの時に展示された。
官展(サロン)への出品に対して、頑なまでに拒否反応を見せていたドガも、この頃には態度を軟化させていたようで、(仏)マリー・ブラックモン(1840~1916)も、6年ぶりに参加している。彼女は、モリゾ、カサットと並んで、印象派を代表する女流画家であってもおかしくない実力者だ。
ただ、第1回印象派展には仲良く参加したはずの夫(仏)フェリックス・ブラックモン(1833~1914)が、妻の成功に嫉妬して、その活動を束縛していたから、今ひとつ知名度は低い。それでも、最終回には何とか間に合って、初めて3人揃って花を添えて、決して当時は多いとは言えない女流画家の存在感を示してくれた。
一方で、版画家でもある夫のフェリックスは、日本の有田焼の包装紙として使われていた葛飾北斎『北斎漫画』を偶然発見して、その素晴らしさに驚嘆して印象派の画家たちに喧伝してみせたと云われているから、作品よりもジャポニスムの形成に一躍買っていたりする。だからと言って、結局、夫婦の軋轢からマリーは絵を描くことを諦めてしまったから、その才能を摘み取ってしまった罪は許されざることだけれど。
一筋縄ではいかないデヴィッド・リンチ監督のテレビドラマ「TWIN PEAKS」(1990~1991)みたいに、群像劇だから複雑な場面転換になるのはご容赦頂くとして、若き画家たちの芸術運動「印象派展」は、第3回目で開花して、第4回目で一定の評価を獲得しそうになったのに、第5回目で方向性がおかしくなって、そこから二度と元に戻らないまま、第8回で幕を閉じる。
恐らくは、経済的な原因が大きかったとは思われるけれど、スーラや(仏)ポール・シニャック(1863~1935)といった点描の画家の招待を巡って、新しい作品への理解を示すピサロと、印象派に拘るモネたちが決定的な対立をしたようだから、「古典への反抗」という初心を忘れて、新しいモノへの拒否反応を起こした誰もが持つ自覚のない哀しい自分本位こそを、色々あったこの物語の重要な暗示にしたい。とはいえ、それが全くの無駄なことだったかといえば、後期印象派や象徴主義といった次世代の若き才能にバトンを渡して、その役目を終えたとも言える。
喧嘩の仲裁が苦手なピサロも、自身が困窮していた中でも、根気よく全8回の印象派展すべてに参加して、若手の面倒をよくみたし、急進的で印象派を壊した男と呼ばれる気難しいドガも、新しい未来を開拓したといえないこともない。
実際に、モネやルノワールがあまり後進の面倒を見たという話を聞かないのに対して、ピサロはセザンヌやゴーギャン、ゴッホの面倒をよくみたし、ドガでさえカサットや、(仏)モーリス・ユトリロ(1883~1955)の母親でもある(仏)シュザンヌ・ヴァラドン(1865~1938)に手ほどきをしていたと云われている。ドガの場合は、女性ばかりなのが少し気になるけれど、しっかりと古典絵画のデッサンをを学んだからこそ教えることがあったんだと思うことにする。
幸福感は自分で決めることだし、成功は歴史が決めることなので、彼らの人生を、どうこう言うのは無責任だけれど、100年後に生まれた特権を活かせば、その後の彼らのことも気になる。早々に離脱した現実主義のルノワールが、第4回が終わった1879年には官展(サロン)に出品して成功を手にしたのは既にご紹介したけれど、結局「印象派展」が彼らにもたらした現世的な利益は、それほど多くはない。
19世紀末には、元々イギリスにも画廊を構えていた画商のデュラン・リュエルは、アメリカでも印象派絵画によって成功を収めたようだけれど、少なからずの支援は施したものの、画家たちの生活が安定するのは第8回印象派展以降のことになる。
今では、高額な値段で取引される「印象派」だけれど、それも一握りの画家たちだ。現世的な成功の線引きは何かということになれば、お叱り覚悟で“長生き”だったことは無関係ではないと思う。
(つづく)