「ベネツィア絵画の創始者」ジョヴァンニ・ベッリーニ(1430~1516)、兄弟子「夭折の天才」ジョルジョーネ(1476/頃~1510)の亡き後、ティツィアーノ(1490頃~1576)は、ヴェネツィア美術を一手に担っただけではなく、ルネサンスを代表する画家としての地位を確立する。デッサンを重視したフィレンツェ派に対して、色彩の錬金術師と呼ばれ、ルネサンスの“三大巨匠”の一角にさえ食い込んだ。
というのも、ティッツィアーノが30歳を迎える頃になると、レオナルド・ダ・ヴィンチの死去(1519年)に続き、ラファエロ(1520年)も亡くなってしまっただけでなく、ミケランジェロはすっかり絵を描かず彫刻に没頭しだすものだから、16世紀ルネサンスはティツィアーノの独壇場になっていた。ボッティチェリを「ルネサンスの三大巨匠」に加えたい僕にとって「四天王」とも呼べない5人目の登場は少し都合が悪いけれど、「5本の指じゃ」なんとなく迫力がなくなってしまうから、どうにか「三大巨匠」で辻褄が合わないかと考えた結果...
【1450年以降】*近世の始まり
- ボッティチェリ(1445~1510)
- レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452~1519)
- ミケランジェロ(1475~1564)
【1490年以降】*メディチ家の没落
- レオナルド・ダ・ヴィンチ
- ミケランジェロ
- ラファエロ(1483~1520)
【1510年以降】*ラファエロの死
こんな感じが辻褄が合っていてお叱りも最小限に抑えられるはずだ。繰り上げ当選みたいになってしまったけれど、実際に今やティッツィアーノは16世紀最大の巨匠と呼ばれている。1530年に終わりを告げたと云われているルネサンス期に滑り込みで入ったエル・グレコもティツィアーノの工房で修業をしたらしい。
エル・グレコといえば、所謂「世界三大名画」でも、『モナ・リザ』、『ラス・メニーナス』、『夜警』といった名画に並んで『オルガス伯の埋葬』(1586-88年/サント・トメ教会)の名前が挙がっているものの、彼の活躍したルネサンス後期がミケランジェロの模倣でしかないという意味で(マンネリの語源にもなっている)「マニエリスム」と呼ばれて軽視されていた関係で、他の3作品に比べて知名度が低く、位置づけも曖昧になっている画家だから、こうしておけば少しは救われるんじゃないかとも思う。お叱り覚悟ではあるけれど。
もちろんティツィアーノは、当時から大いなる名声を得ていて、西洋美術史上でもその地位は、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ、そして「王の画家にして画家の王」と呼ばれ絵画黄金時代のバロック期を代表する巨匠ルーベンス(1577~1640)と並び称されているから、僕の余計な御託は必要ない。
同時代を生きたミケランジェロは、ティッツィアーノの力量を認めた上で「技術を磨き、特に実物を描写する訓練をしたら、もはや匹敵する画家はいないだろう」と評している。ミケランジェロの物言いが少し上から目線なのが気になるけれど、ライバル視していた一回りも下の後輩の作品を前にして、デッサン重視のフィレンツェの中でも絵画より彫刻を重んじていたのだから一家言があっても仕方がない。何より他人を褒めないことで知られている偏屈なミケランジェロだから、もうこれは“絶賛”と呼んでも良いくらいだ。
実際にルーベンスは、ミケランジェロの華麗なデッサンから多大な影響を受けながらも「彫刻的な描写は慎重に使わなければならない。何よりも石のように冷たい感触は避けねばならない」と語っていて、その答えをティツィアーノの作品に求めている。
ミケランジェロが聞いたら怒髪天を衝くだろうけれど、お互いを意識して描いたと云われている『レダと白鳥(模写)』(16世紀/ロンドン・ナショナルギャラリー)と、『ダナエ』(1554年頃/ウィーン美術史美術館)を比べればルーベンスの指摘は間違いない。さすが王の画家にして画家の王〟。『レダと白鳥』が現存していないのは『ダナエ』を見たミケランジェロが恥ずかしくなって自分で廃棄したからじゃないかと言ったら過言だけれど。
(つづく)