「印象派の父」は「私は官展(サロン)に挑戦する」と言って「印象派展」に参加しない。保守的な画壇を内側から変革するという気概ならばカッコ良いのだけれど、僕は決してそう思わない。とにかくマネは名を上げたかったのだと思う。
父親の期待に応えられずに、画家の道に進んだのだから、売れなければ面目がない。しかも、父親の死後も極端なまでに名誉や権威に拘っていたから、よほど自分の不甲斐なさを恥じていたんじゃないかと思う一方で、それを世の中のせいにしている節もある。
友人でもありパリで活躍していたイタリア人画家のジュゼッペ・デ・ニッティスが、フランス政府からレジオンドヌール勲章をもらうことを知ったマネは、未だに鳴かず飛ばずだった自身を顧みず、気の置けない友人のドガに「私が勲章をもらっていない理由は私のせいではない。もちろんできればもらいたいし、そのためには何でもするつもりだ」と心情を吐露している。もちろん本当に権威を嫌ったドガは(エコール・デ・ボザール卒)呆れてマネのスノッブな物言いを往なしている。
ジュゼッペ・デ・ニッティスがフランス政府から高く評価された理由は、1878年の第3回パリ万博に出品した作品であるけれど、もちろんマネは未だに万博に出品できる立場にはない。国威を賭けた万博であるから、権威主義のマネにしてみれば、喉から手が出るほど参加したかったに違いないけれど、栄誉に預かったのは友人の方だった。
実際にその前のパリ万博(1867年)では、官展(サロン)での評価が高いアカデミズム絵画のカバネルやバルビゾン派のミレーの作品が選ばれて、自分が歯牙にもかけられないことに腹を立てたマネは、あろうことか万博会場のすぐ近くに自費でパビリオンを造って個展を開催した。もちろん、試みは恥ずかしいくらい大失敗に終わる。
ただ、この挑戦的な態度は若い画家たちを触発して、印象派展開催の機運が一気に高まったりもしているから、マネの闇は罪も深い。マネが印象派展に反対した理由のひとつには、同じように失敗する可能性のある展示会にあたって、また自分が資金的な援助を求められるんじゃないかという心配もあったんじゃないかと思うのは考え過ぎかもしれないけど「自分の為には個展を開いても、僕らの為にはやってくれないんですか?」と問い詰められたら、いくら長男気質で面倒見の良いマネでも引き受ける訳にはいかなかったはずだ。
今では19世紀フランスに花開いた“印象派”と云われているけれど、「印象派展」の成功によって、一世を風靡したというのは少し違うと思う。正確に言えば「印象派展」に参加した画家の中の数名だけが、その後に“売れた”のだ。今では有名なモネやルノワールを本人たちが“黒歴史”だと思っている可能性さえある。ルノワールに至っては早々に参加をやめて官展(サロン)で成功しているから、いよいよマネに僻まれることになる。
一方で「印象派展」に参加しなかったマネの、官展(サロン)での成功への執念はただ事ではない。1859年から1881年の18回に渡って入落選を繰り返しながら30点もの作品を出品し続けた。印象派の画家たちの青春群像ではなく、そこに付かず離れず並走するマネの人生を軸に考えると、それはそれでひとつの物語になっている。
マネが官展(サロン)に初出品したのは、トマ・クチュールの画塾に6年も在籍した後に、バティニョールにアトリエを構えたものの、その近くのカフェで仲間を作って飲んだくれたり、フィレンツェを旅したり、ルーブル美術館で古典絵画の模写をしたり、3年間もふらふらしてからのことだ。弟の家庭教師との間にできた子供も7歳なのに、さすがに親の脛をかじっていられなくなったのかもしれない。だからといって世の中はそんなに甘くはないし、その荒波を掻き分けて花が開くほどマネに才能があった訳でもないなんて思っても言わないけれど。
とはいえ、その当時の官展(サロン)の審査委員が、イタリア古典美術を重んじる美術アカデミーの会員で独占されていたから、イタリア嫌いでスペインや日本が好きなマネの作品が認められるわけもなく、出品した『アブサンを飲む男』(1859年頃/ニイ・カールスベルグ・グリプトテク美術館)は落選した。
繰り返しになるけれど、入選といっても、会場に飾られる1000点以上のその他大勢の作品でしかなくて、さらにそこから優秀賞を獲得しなければ“評価”されたことにはならない。評価されればめでたく翌年からの官展(サロン)には、無審査で展示される栄誉が与えられる。
同年は、ミレーの『落穂拾い』(1857年/オルセー美術館)が入選したものの、当時最下層の農民を描いたことで保守的な批評家から酷評されてしまうけれど、彼の場合は時代の変化と共に評価が高まり、前述のとおり『晩鐘』(1859年頃/オルセー美術館)が万博で飾られるようになる一方で、マネの方はまったく時代の波に乗れずに低迷し続ける。
時代に阿らず我が道を行くのであればまだ良いけれど、誰よりも時代に認められたかったのだから、知りたくないけれど「印象派の父」は結構みっともない。
(つづく)