
マネのサロンへの挑戦は、初出品の『アブサンを飲む男』から22年、初入選の『スペインの歌手』『オーギュスト・マネ夫妻の肖像』から20年、問題作『草上の昼食』から18年、『オランピア』から16年が経った1881年、50歳を前にして突然報われる。
この年には『アンリ・ロシュフォールの肖像』(1881年/ハンブルグ美術館)が銀賞を受賞しただけではなくて、先述の旧友プルーストが美術大臣に就任すると、彼の強い働きかけによって念願だったレジオンドヌール勲章を授与された。
アンリ・ロシュフォールは、皇帝ナポレオン3世に逆らって有罪判決を受け国外に逃亡していたジャーナリスト兼作家で、ナポレオンの失脚と共に赦されて凱旋帰国した当時の英雄だったけれど、特に今まで政治的な態度など少しも表明したことのないマネが、彼の帰国後すぐに肖像画を描いたのは、決して「フランスの今」ではなくて「賞が獲りやすい題材」として(前年のプルースト同様に)選んだのだと思う。
実際に、マネは世論の風向きを気にして、もう1枚『ロシュフォールの逃亡』という作品も準備をしていたようだけれど、もはや僕は驚かない。友人のコネを使ってまで勲章を欲しがった画家なのだから。
それよりも、翌年のサロンで無審査での出品の資格を得たマネが、いったいどんな絵を描いてみせるのか?そっちの方が気になる。
これまでのマネは、サロン(官展)に認められたい一心で、自身の美術的な追究ではなく、手を変え品を変えて権威に気に入られる作品を描くことに固執していたと思うのは僕だけではないはずだ。マネも敬愛していた(蘭)フランス・ハルスは「微笑の画家」、マネが絵が下手だと見下したルノワールは「幸福の画家」、腐れ縁のドガは「踊り子の画家」と呼ばれている。ただの愛称ではあるけれど、画家の特徴を捉えているのは間違いない。
マネにもない訳ではないけれど、お叱り覚悟で言えば、どうもマネを殊更に持ち上げたい人たち限定の「黒のマネ」というのは、少し無理があると思う。マネが傾倒していたスペイン絵画の巨匠たち、ベラスケスやゴヤも非常に効果的に黒を使っているので、彼らに影響されているならば当たり前のことだからだ。
もちろん「印象派の父」は、マネの愛称ではあるけれど、これは印象派の話であって画家マネについてでもなんでもない。激動の時代のアカデミーにウケる絵を描こうと腐心したマネの画風は同じように激動するから一定であるはずもない。
もちろん本人に確認しても、そんな殊勝なことを言うはずもないけれど、無審査のサロンにマネは集大成ともいえる大作『フォリー・ベルジェールのバー』(1882年/コートルード・ギャラリー/96cm×130cm)を出品した。

フォリー・ベルジェールは今でも開業している音楽ホールで、ロートレックも愛したパリの夜遊びを代表するスポットでもある。どうも体調が優れないマネは、自宅にフォリー・ベルジェールのバー・カウンターを再現して、実際に働いていた女性をモデルに雇ってこの絵を完成させたらしいから、気合いの入り方が違う。
それだけではなくて、マネが憧れたベラスケスの『ラス・メニーナス』へのオマージュが、たくさんの寓意と共に含まれていると云われていて、片や三大名画のひとつにも数えられているのだからマネの尊大さも健在だ。

しかし、今でこそ『フォリー・ベルジェールのバー』はマネの代表作のひとつと云われているけれど、当時はマネの近所の作曲家の家に飾られていたそうだから、国が買い上げる訳でもなく、集大成でさえそこそこの評価であったに違いない。それどころか、話題にこそならなかったけれど関係者から苦笑程度の困惑は引き出した。
(つづく)