本人にとっては不本意であっただろうけれど、古典を下敷きにしてルネサンスの息吹を蘇らせようとしたマネの意欲作『草上の昼食』(1863年/オルセー美術館)は、ただの反抗的な問題作として誤解されて、識者たちには不評を買うけれど、若い画家たちの英雄に祭り上げられてしまう。
マネが意図的に問題作を描いたのかどうかということになると、古典美術に挑戦したものの、その意図を伝えるにはマネの画力が稚拙過ぎたのか?それとも、当時の美術界では、エリートではない画家が売れようと思えば、保守的な画壇に反発して問題作を描き、話題になることがほぼ唯一の道であったから意図的に描いたのか?マネに会ったら聞いてみたいけれど、150年も前のことだし、きっと本当のことは教えてくれないとも思う。
新古典主義に対抗したロマン主義の画家(仏)テオドール・ジェリコー(1818~1819)も、マネと同様に実家が資産家で画家の道に進むことを望まれていなかった。共にエコール・デ・ボザール(国立高等美術学校)ではなく、私立の画塾で学んだことも共通するのだけれど、ジェリコーは意図的に、実際にあったフランス政府の失態を描いた問題作『メデューズ号の筏』(1819年/ルーブル美術館)を発表した。
これは政府の失態を糾弾したい訳ではなく、売れるためにとにかく目立つための主題を選んだと云われている。そしてその意図は成功して、ジェリコーの知名度はフランスだけでなくヨーロッパ中に響き渡ったのだけれど、32歳の若さで亡くなってしまった。ただ、歴史画の伝統的な様式に則った約5m×7mの大作は、『民衆を導く自由の女神』(1830年/ルーブル美術館)でフランス革命を描いた(仏)ウジェーヌ・ドラクロワ(1798~1863)に影響を与えて、ロマン主義の先駆と云われている。
残念ながらマネの方は、例え古典美術へのオマージュだったとしても、画力が足りないものだから、ジェリコーのように問題作をもって話題作としようとしていると理解されて、一部の若い画家の支持を得るのみで、大げさな高評価は没後かなり経ってからのことになる。もちろん、マネの絵は売れることもなかったのだから、残念な結果だ。
しかし、若い画家たちに囲まれて自尊心が膨らみ続けたマネは、翌年1864年に恐らく親のお金でバティニョールにアトリエを構えて尊大に振舞い、近所のカフェ・ゲルボアで酒を煽り、自由奔放な生活を送りだすけれど、「印象派の父」になるのはまだ先の話しだ。
「落選展」を経て、官展(サロン)の評価基準も多様性を認めるようになり、翌1864年にはマネにも入選のチャンスが訪れた。しかし成功を焦ったマネは、それまで否定していた(保守的画壇が好みそうな)宗教画『死せるキリストと天使たち』(1864年/メトロポリタン美術館)を出品して入選するものの、マネより先にフランスの“今”を描き、なんならマネのことを同じく“今”を描こうとしているのだと好意的な評価をしていた巨匠(仏)ギュスターヴ・クールベ(1819~1877)は、作品を観て失望して「天使を見たことがない彼が描いた絵ならば仕方がない」と鼻で笑ったと云う。結果を求めすぎたあまり、それまでの理解者さえ失った。
ちなみにこの年に最も高い評価を受けた作品は、自身の信念を貫き農民画を描き続けていた(仏)ジャン=フランソワ・ミレー(1841~1919)『羊飼いの少女』(1863年/オルセー美術館)だ。
信念もなしにただ成功を求めても、勝利の女神は逃げ足も速いから追いつく訳もないと、マネの生き様はむしろ反面教師でさえある。絵の腕前は今ひとつでも、雄弁で頭の回転は速いマネだから、そのことに気付いても良さそうなものなのに、取り巻きの若い画家たちが余計な擁護をするものだから、悪いのは自分ではなくて世の中の方だと嘯いてマネは尊大に振舞わなくてはいけなくなって、いよいよ滑稽な話になってくる。
ただ、演じなくてはいけない大物気取りと、現実とのギャップに苦しむマネのストレスは想像以上に大きくて、同じ年に入選したものの「結局ベラスケスやゴヤの真似じゃないか」と批判された『闘牛のエピソード』(1864年)を、ヒステリックに真っ二つに切り裂いてしまうから、もはや作品への愛情さえ感じられなくて、有名になるための手段として、画家を演じているだけだと思われても仕方がないし、若い画家たちの期待に応えざるを得ない生き様を「誰のための人生か?」苦しんでいたのかもしれないと、余計なお世話でも心配にさえなってくる。
(つづく)