やがて、パリを沸かせた日本美術のブーム“ジャポネズリー”は、日本の文化そのものに興味を持つ“ジャポニスム”へと深化していく。多くの画家たちが、新しい絵画の“浮世絵”を通して日本的な“美”を理解しようとした。そしてその足跡は、彼らの作品の中で雄弁に語られている。
例えば「印象派の父」と称される(仏)エドゥアール・マネ(1832~1883)は、代表作『笛を吹く少年』(1866年/オルセー美術館蔵)に“浮世絵”の要素をふんだんに採り入れている。
それまでの西洋画にはあまり見られない“背景”のない作品は、スペインの巨匠ベラスケス(1599~1660)の影響とも云われるけれど、少しだけ違うのは“影”だ。
マネが「空気だけが人物を包んでいる」と評した『道化師パブロ・デ・パリャドリード』(1624-1632年頃/プラド美術館 蔵)で、ベラスケスが背景を消した理由は“光”の演出で、斜め上からの光は人物を立体的に際立たせる効果を狙ったものだと思うのだけれど、“少年の影”は正面からの光を表現しているから、むしろ平面的に感じる。
少年の顔の陰影も(まるで正面からの強い光で皺を隠す大女優のように)ほとんどつけられていないし、ズボンの横に引かれた太い線はくっきりとした輪郭線のようにも見えるから「陰影がないシンプルな線描で忠実に描かれた躍動的な動き」である浮世絵との共通点を感じざるを得ない。
案の定、西洋画の伝統に反した作品は国立美術アカデミー主催の美術展「サロン・ド・パリ」で酷評されるけれど、唯ひとり新しい試みを称賛してくれた小説家のゾラに、マネは肖像画『エミール・ゾラ』(1867-1868年/オルセー美術館 蔵)をプレゼントしている。この作品の背景はゾラの書斎の壁であり、そこにはゾラへの感謝を表すようにマネが好きな絵が3枚飾られている。
やはり前年に入選するも「サロン」で酷評されたマネの代表作でもある『オランピア』(1863年/オルセー美術館蔵)、尊敬するベラスケス『バッカスの戴冠』(1628-1629年/プラド美術館)の版画、そして「相撲錦絵」2代目歌川邦明『大鳴門灘右エ門』だ。画面左には屏風絵まで描き込まれているから、マネの日本贔屓は推さなくとも知れる。
浮世絵は、19世紀パリで伝統的な古典美術から抜け出して、新しい絵画を模索していた画家たちの道標となった。それは、自らを「現代生活の古典画家」だと呼んで、(印象派に数えられながら)印象派の画家たちとは一線を画していた(仏)エドガー・ドガ(1843~1917)も例外ではなかった。
むしろデッサンを重視したドガにとって浮世絵の流麗な線描は、影響を受けるというよりも親近感を感じたはずだ。その代わりじゃないとは思うけれど、ドガは浮世絵の“構図”を積極的に採り入れた。
浮世絵ではよく町並みが高い視点から見下ろすように描かれる。ドガは『スター、舞台の踊り子』(1876-1877/オルセー美術館)を「俯瞰の構図」で描いている。そして、主人公の“踊り子”を画面中心から右にずらして、左に余白を作ることで舞台上を動き回っている“踊り子”の躍動感を表現している。
それまでの西洋美術は基本的に、描きたい対象は水平に正対した視点で、画面の真ん中に描かれているから、ドガもまた浮世絵の革新性に魅せられた一人なんだと思う。
(つづく)