西洋美術史の中でもっとも謎に包まれている画家ジョルジョーネ。その中でも『嵐(テンペスタ)』(1505ー1507/アカデミア美術館)は、今でも解釈が数えられないくらいあって、西洋絵画史上もっとも多様な解釈が存在している作品だといえる。
裏を返せば、自分で勝手にどうにでも解釈しても良いという訳で、西洋絵画史上もっとも楽しめる絵画と言っても良いのかもしれない。真実が、長年重ねた研究よりも、初見の閃きの中にある可能性はゼロではない。
そもそも不穏な空に走る稲妻に照らされた“男女と乳飲み子”が誰なのか?というところから議論が始まるのだから、結論が導き出される気配はしない。聖書の寓意ならばイエス・キリストと聖母マリア、父ヨゼフだと考えるのが妥当なのかもしれないけれど、アダムとイヴとその子カインという専門家もいたりして、しかしその何れにしても各々に紐づく小道具が画面中に見当たらないから、専門家の中でさえ画家本人と恋人だとか、何かの神話の一場面だとか20以上の解釈があったりするくらいやっぱり不思議な絵だ。
赤ちゃんにお乳を与えている女性は、全裸ではなくて中途半端に布を纏っているからきっと神話や聖書に出てくる神さまではないだろうし、そもそもお乳を上げるのに何故服を脱がなければならないのか?何か意味があるのじゃないかと次から次へと疑問は尽きない。(伊)ボッティチェリ(1445~1510)の『ヴィーナスの誕生』(1485年頃/ウフィツィ美術館)が地上に降りた神話の中のヴィーナスで、『ラ・プリマヴェーラ(春)』(1482年頃/ウフィツィ美術館)が、その後に衣服を纏った聖母マリアだとするならばちょうどヴィーナスから聖母マリアに変わる途中の女性を描いたのかもしれないと思ったりもする。とはいえ、膝に乗せるはずの赤ちゃんが地面に置かれているのが女性の裸を目立たせるためだとしたら、この絵の依頼主であるヴェネツィア貴族の「美しく妖艶な女性を描いて欲しい」という要望なだけかもしれないけれど。
鑑賞者に向けて睨むような視線を向けて「何を見てるのよっ」とでも言っていそうな女性の横で、何食わぬ顔をして立っている男性についてもやっぱり気になる。
杖を持っているのはイエス・キリストの誕生を予言した洗礼者ヨハネの象徴でもあるから、そうなると女性は聖母マリアで、乳飲み子はイエス・キリストということになって、これはレオナルド・ダ・ヴィンチも描いている『岩窟の聖母』(1506-08年頃/ロンドン・ナショナル・ギャラリー)の一場面ではないかと思ったりするけれど、洗礼者ヨハネのもうひとつの象徴“羊の皮の腰巻”や、もう一人の登場人物である守護天使ウリエルが描かれていないから、お叱り覚悟だとしても何とも言えない。
もはや鑑賞者をあえて混乱させる意図ではないかと思う訳だけれど、画中の人物と同じくらいの存在感で描かれている、嵐の空、闇を劈く稲妻、そして背景というにはもったいない緑豊かな森が、この物語の重要な要素に思えて仕方がないから、個人的には「仰々しく語られる数多の人間の物語など自然のたった一部分でしかない」という壮大なメッセージを感じる。
ヴェネツィア美術は、人間中心のルネサンス主義だけではなく、世界の中心に自然を据える北方絵画の影響を(油絵具と共に)受けているはずだから、まんざら間違ってもいないはずだ。何れにしても僕でさえ、これだけ想像力を掻き立てられて、定説に遠慮せずに勝手なことを言えるのだから、間違いなく西洋絵画史上もっとも楽しい絵画であることは間違いない。
ほとんど遺っていない記録、時代に縛られない自由な作風の他にも、ジョルジョーネの作品の謎が深まる理由に、ジョルジョーネの弟弟子で16世紀最大の巨匠と呼ばれたティッツィアーノの存在がある。
(つづく)