ナポレオン3世の政治的配慮や、葛飾北斎の影響といった背景は棚に上げておいて、具体的には『草上の昼食』『オランピア』といった、古典にこだわるアカデミーに挑戦する(仏)マネの態度に刺激されて、モネとピサロを中心とした若き画家たちが、保守的なルールに縛られない自由な創作のためのグループ展の構想を、都市化の進むモンマルトルの酒場で立ち上げる。もちろん、確認したわけじゃなくて、モンマルトルであって欲しいし、酒場であって欲しいだけだけれど。
実は、このグループ展の構想をモネやピサロと熱く語っていた一人に、(仏)フレデリック・バジール(1841~1870)という画家がいる。
本人は“落選展”以降の“官展”でも1866年以降に度々入選していたのだけれど、題材の格付け(宗教画/歴史画、肖像画、風俗画、風景画、静物画)等の決まり事で審査されることに不満を持って、自由に絵が描ける環境を誰よりも望んだ。
このことは、彼が富裕な家の育ちで、医学を学ぶことを条件にようやく絵を描くことを許された事情が深く関わっている気がする。保守的な家庭の事情の中で、二足の草鞋で創作を続けた彼こそが、誰よりも自由な創作を願ったとしても不思議はない。
しかし、ドイツの罠に嵌まって開戦した普仏戦争に自ら志願して戦ったバジールは、印象派展の実現を見ずに、29歳の誕生日の1週間前に戦死してしまう。特に親友だったルノワールは彼の死を悲しみ、以後“明るい絵”しか描かないと心に決める。
例え「哀しみを感じない軽い絵」だと酷評されようとも、晩年リウマチで絵筆を手に括り付けてまで描こうとも、その決心は揺るがなかった。バジールの作品は少ししか遺っていないけれど、謀らずしも『家族の集い』(1867年/オルセー美術館)のように写実と印象の真ん中で、個人的には決定的なマスター・ピースだと思う。
『草上の昼食』から10年後、バジールの死から4年後の1874年に、若い画家たちの想いは実現する。モネ、ルノワール、ピサロ、シスレー、ドガそしてセザンヌを合わせて総勢30人の165点の作品がお披露目された。
まだ「印象派」の名前はない。さすが芸術の都パリの名前に相応しく3,000人以上の来場はあったけれど、ほとんどが冷やかしついでに訪れていたから絵は売れるはずもなくて、商業的には失敗であったと言わざるを得ない。
唯一彼らが手に入れたのは、薄っぺらい「ただの印象画」だという汚名だけだった。もちろん、モネ『印象、日の出』(1873年/マルモッタン美術館)が、由来になっている。
『ゆりかご』(1872年/オルセー美術館)を出展した前述(仏)ベルト・モリソ(1841~1895)は、それまで“官展(サロン)で高い評価を受けていたのだから、少し可哀想な気がしないでもない。
3,000人いう来場客数さえ、同時期に開催された“官展”には50万人が来場したという記録があるから、やっぱり歴史的な大敗だ。
第1回(1874年)
ちなみに、今のパリでは連日たくさんの美術展が開催されているから、滅多に行列ができることがないという。2015年にパリ最大級の展覧会場「グラン・パレ」で開催された『北斎漫画』誕生200年を記念した「北斎展」には、500点を超す北斎作品が展示されて、数時間待ちの行列ができたから、これも歴史的な出来事だ。
(つづく)